明野照葉 輪(RINKAI)廻 [#表紙(表紙.jpg)]  ──新宿・大久保午前一時──  歌舞伎町の、色鮮やかというよりもけばけばしい街の灯は、女を怯《ひる》ませ、しばしその足をすくませた。  東京へ──。あてなく一心に思いつめ、たどり着いたところが新宿だった。駅に降り立ち、構内の人の流れに押し流される恰好で東口へと出る。そのまま確たる意志なく人込みに呑まれ、女は歌舞伎町へと迷い込んでいた。明確な決意はなかったにせよ、心のどこかではこの街を目指していたのかもしれない。しかし、女は臆し、たじろいでいた。  東京が、大都会だということは知っていた。なかでも新宿は、日本でも一番の大歓楽街。そこにならば自分が生きていく余地もあるのではないかと、ぼんやりここでの暮らしを思い描いてやってきた気もする。だが、現実に目にする歌舞伎町の灯はあまりに煌々として眩しく、毒々しすぎた。満艦飾《まんかんしよく》のネオンサイン、通りを埋めつくすように流れる車のライト、ところ狭しと並んだ店々の明かり。光、賑わい、喧騒、熱気……時刻は既に深夜でありながら、この街は深い夜の中にはなかった。通りに溢れかえる人もまた、ぎらぎらとして強烈に映る。どうしてだろう、人が人に見えてこない。  いきなり、どんと突き飛ばされるような衝撃が背中にあって、女はよろめき、手にしていたボストンバッグを地面に落とした。 「危ねえな。何ぼうっとして突っ立っていやがるんだ、この婆《ばば》ぁ!」  罵声に振り返ると、赤黒い顔色をした酔眼の男が、剣呑な表情で女を睨んでいた。「婆ぁ」と言われたのは、生まれてこのかた初めてのことだった。恐ろしさと衝撃とが、女の顔から色を奪う。男の背後では「子猫の部屋」と書かれたイメクラの派手な電飾看板が、電球をちかちかさせている。 「何だよ、口がきけねえのかよ?」  焦点の定まらぬ目が、なおも女を睨みつけている。緩んだネクタイ、乱れた髪、血走り濁った白目、酒臭い息。女は無意識に身を強張《こわば》らせた。 「あー、すんません、すんません」不意に脇から軽い調子の声がして、男が一人割ってはいってきた。「こいつ、今日いろいろあって、ちょっと酔っ払っちゃってるもんですから。──こら、大西、いくぞ、いくぞ」  よく見れば、地味な背広に身を包んだサラリーマンで、単に酔っ払っているだけのことだった。大西と呼ばれた男はけっと忌々《いまいま》しそうに唾を吐くと、相棒の男に腕を引っ張られるようにしながらも、素直に向こうへ歩きだした。ほっと小さく息をついてボストンバッグを拾い上げる。しかしこれからどこへゆこう。 「だけどさぁ、そんなところでボストンバッグなんかさげて突っ立っていたらカモられるよぉ」割ってはいってきた男のほうが、遠ざかりながら女に向かって声を張り上げてきた。「見え見えだもんなぁ。私はぁ、ぽっと出のぉ、田舎者代表でーす!」  二人は身を捩《よじ》りながら、げたげたと下卑た笑い声を立て、萎えたような足取りで雑踏の中へと紛れ込んでいく。顔に恥辱の血の気がさす。黙ってその場に佇《たたず》んでいることに耐えられず、女はあてどなくまた歩き始めた。駅の方へと、今きた道を再び引き返す気持ちにはなれない。街の奥へ奥へと進んでゆく。婆ぁ、ぽっと出の田舎者……男たちの言葉が胸の内に降り積もり、底に重たく沈澱していく。それが女の足取りを重たくし、身と心から力を削《そ》ぎ落としていた。  見ず知らずの人間に、いきなり身の深くまで切りつけられた心地がした。本当なら憤ってしかるべきだと思う。だが、都会の海に漕ぎ出したばかりの女は寄る辺なく、あまりに頼りない存在でしかなかった。一歩足を踏み出すごとにここで生きていく自信が失われ、失意ばかりが頭や背に、重たくのしかかってくるようだった。  いつしか女は賑やかな街の一画を抜け、ホテル街にはいり込んでいた。それがいかなる種類のホテルであるかぐらいは察しがついた。顔を俯《うつむ》き加減に足早に通り抜け、広い通りを渡ってまた前に進む。しかし、またホテル街が続く。女の足取りが再び早くなる。その目の前に、ふいっと黒い影が躍り出た。ぎゃっと叫びかけた声が咽喉《のど》の奥で凍りつく。  チッ、と舌打ちをして肩を竦《すく》めたのは相手のほうだった。背の高い、金色の髪をした彫りの深い顔だちの女だった。外国人。彼女はすぐにまた暗がりに身を寄せて、素知らぬ振りで女をやり過ごした。女は一瞬、今自分が目にしたものが夢かと思った。モデル顔負けのプロポーションをした異国の姫君。そんな美しい女が深夜の道端に立ち、昔ながらに男の袖を引いている。  細い道の先に通りの明かりが見えた。安堵するより肩からがっくり力が抜けて、一度に疲れが噴き出した。ようやく通りに出はしたが、次は右に行こうか、それとも左へ行こうか。心もからだも行き惑う。  女は通りで真っ先に目についた喫茶店に飛び込んだ。少し気を落ち着けてこの先のことを考えたかった。心だけではなく、足も疲れていたし咽喉も渇いていた。 「いらっしゃいませ」  入口で、半分|気後《きおく》れしたように突っ立っている女を招くように、ママとおぼしき女が声をかけ、水のはいったグラスとおしぼりをカウンターの上へ置いた。それに誘われるように女はカウンターへ歩み寄り、腰を下ろした。コーヒーをと、何も考えることなく注文する。時計を見る。既に深夜の一時をまわっていた。にもかかわらず店内には当たり前のように人がいて、話をしながらコーヒーを飲んだり煙草をふかしたり新聞を読んだり……思い思いに夜の時を過ごしている。店の中には、コーヒーの香とともに澱んだ夜が垂れ籠めている。頭では、こんな暮らしが日本のどこかにあるということは承知しているつもりだった。それでいて、やはりこれが日常ということが、まだ現実として肌に馴染んでこない。 「そのバッグ、こっちに預かっておきましょうか?」  不意にカウンターの内側のママに声をかけられて、女は我に返った。 「そんなところに転がしておいたら、誰かがさっと店にはいってきて、持って行かないとも限らないから」  あっ、と足元を見る。ボストンバッグは椅子の下に投げ出されたままだった。その中には、人からすればささやかなものでも、女にとっては全財産というに等しいものが収まっている。女は慌ててバッグを抱え込んだ。 「大丈夫です。膝の上に置いておきますから」 「ならいいけど」  ママはいかにも関心のなさそうな表情で言い、カウンターの上に濃い琥珀色の液体を抱えたコーヒーカップを滑らすように静かに置いた。顔に険はない。が、どこか肚《はら》が坐ったような気配のするママだった。無造作に束ねた長い黒髪には幾筋かの白髪が混じっているが、別段気に留めているふうもない。その白髪さえもが個性のひとつになっているようなお洒落っぽさ……たかだかそれぐらいのことにも女は半ば圧倒されていた。  コーヒーを飲み、疲れと衝撃を自分の中から少しずつ追い払う。それでも、まだ三十にもなっていないというのに婆ぁと言われた衝撃は、容易に女の中から消えていかなかった。そこから発する失意が、これからのことを考える意欲に水を差す。  時間ばかりが過ぎていく。先のことは何ひとつとして決まらない。一歩店を出れば、元通りの迷い子だ。 「あの……」一時間以上も黙していた後、女は思い余ってママに声をかけた。 「はい?」素っ気ない顔、色のない声。 「この辺に、女一人でも泊まれるホテルか何かありませんか?」 「あるわよ、ビジネスでもカプセルでも」 「どこか紹介していただけないでしょうか?」  ママの頬と口許の筋肉がわずかに歪み、うっすら苦笑の色が滲んだ。冷笑だったかもしれない。 「どこだって、行きさえしたら泊めてくれるわよ」 「それじゃ、場所だけでも教えてください」 「いいけど、ビジネスとカプセル、どっちにするの?」  言葉につまった。カプセル、と言うだけの勇気がない。泊まってみるだけの意気地もない。 「この時刻だもの、何なら朝までここにいたら? 朝六時までの営業だから。ボックス席が空いたらそこで突っ伏して眠るのもよし、週刊誌を読むのもよし……別にうちは構わないわよ」  女は黙ってママの顔を見た。 「朝になったらマックかロッテリアにでも行って朝ごはんを食べて……あとのことはそれから考えたら?」  見抜かれている、と思った。当然かもしれなかった。千鳥足の酔っ払いにさえ、ぽっと出の田舎者と言われた身だ。 「マックもロッテリアもこの通りの左側、新大久保の駅の方向にあるわ」 「新大久保……。ここ、歌舞伎町じゃないんですか?」  ママはちょっと呆れたように目を見開いた。「ここはもう大久保。あなた、それもわかってなかったんだ」 「新宿駅で降りて歩きまわって……だから私、てっきり歌舞伎町のはずれあたりかと」 「歌舞伎町のはずれねぇ、それはいいわ」ママは乾いた声で笑った。「確かにここは歌舞伎町の場末、おこぼれに与《あずか》って成り立っているような街だものね」  歌舞伎町に職はあっても歌舞伎町では暮らせない。大久保は、歌舞伎町で喰っている人間には、暮らすにちょうど都合のいい街。そんな人間たちを当て込んで、一晩中店を開けているところも多い。ここは歌舞伎町で燃え残ってこぼれ落ちた欲望が、そのまま雪崩れてきている街でもある──、ママは、そんなことを女に語った。 「私さっき、すごくきれいな女の人を見ました。それもホテル街で。外国人……ああいう人もいるんですね」 「だったらきっとコロンビア人でしょ。十七、八年ぐらい前からだったかな、いや、もっと前からか。地方からばかりじゃなくて、中国、台湾、韓国、東南アジア、それに南米からもたくさん人が流れてくるようになったわね。みんな歌舞伎町に落ちる金を拾いにやってきて、この大久保で暮らしてる。昔っからそういう町なのよ。お江戸の昔からね」  大久保は市ヶ谷御門の外、したがって、もはや江戸とはいえない。甲州街道から内藤新宿を通って江戸へはいる人と川越街道から江戸へ向かう人、その人の流れのちょうど狭間《はざま》にあった町。だから大久保は、江戸、内藤新宿の場末の町だ。 「昔、このあたりには武家屋敷が多くあったらしいけど、それだって下屋敷。しかもあなた、ここらには犬小屋が建てられて、江戸じゅうの犬が集められていたっていうんだからどう考えたってろくなところじゃない」 「江戸じゅうの犬が、ですか?」 「そう」ママは頷き、銜《くわ》えた煙草にカチッとライターで火を点けた。「ほら、生類憐みの令だったっけ? 人間より犬を大事にしろとかいうおかしなお触れがあったでしょ? そのお蔭で江戸市中の犬を放っておく訳にもいかなくて、抜弁天《ぬけべんてん》のあたりに犬小屋を作ってそこに犬を集めた訳。あ、抜弁天って言ってもわからないか」  要は場末たることを運命づけられた街、とママは、煙草の煙を吐き出した。江戸や内藤新宿から溢れた人が、やってきては吹き留まり、また消えていった通りすがりの町、と。 「そういう因縁を持った土地なんでしょ。私なんかここで店をやっていても、いつも駅のプラットホームにいるような気分、まるでキヨスクのおばちゃんよ。わけのわからない人間がどこからかやってきては消え、後から後から流れてきてはまたいなくなっていく。流れ者みたいな人間が、いっとき暮らすには都合がいいのね、きっと。近頃じゃ言葉も通じないような人間も多くなって落ち着きゃしない。今や国籍不明の雑踏の街ね、ここは」  人間の吹き溜まり、流れ者がいっとき暮らしを営む街……もしかすると自分も風に煽られるように、この街へと流れ着いたのかもしれない、と女は思った。ここでならば、私も暮らしていけるかもしれない──。 「ここは人が暮らせる街ではあっても、生活を営むところではないわね」女の心を読んだようにママは言った。「私はそう思うわ」  それじゃママさんは? と、聞かずもがなのことを口にする。ママはちょっと肩を竦め、私は大久保の生まれ、ここがふるさとなんだから仕方がないと、面白くもなさそうな顔をして答えた。 「ま、いずれにしても新宿なんてひどい街よ」ママは手にしていた煙草を灰皿に押しつけるように揉み消して言った。「遠目には活気があって華やかに見えるけど、中にはいってみるとささくれ立っていてえげつなくて。歌舞伎町のネオンの灯りなんか水面に映ったあやかしの灯りみたいなもので、実体なんかありゃしないんだから。その下の暗い海の底で暮らしていけるのはグロテスクな深海魚だけ。こんな街に長居をすれば、深海魚に喰われるか自分がおどろおどろしい深海魚になるか……どっちにしたって女にとっては、あんまり幸せなことじゃないわね」  大久保の生まれというのは嘘、ママもまた深海魚──、カウンターの向こうのママの顔を見ているうち、だんだんとそんな気がしてきていた。いくら向かい合ってこうして話をしていても、いっこうに顔が見えてこない。網膜に像は映っても、実体のある人間の顔とは思えない。 「ありがとう、ママ」女は言った。「私、ママさんと話ができて、お蔭で何だか落ち着いたみたいです」  新宿駅に降り立ってから、まだ何時間と経っていない。けれどもそのわずかの時間に、ひどくたくさんのことを学んだような気がした。欲望、憂さ、憤り、酒や薬で得た浮かれ調子……ここは箍《たが》のはずれたエネルギーが剥き出しのまま溢れ、渦巻いているような街。たとえ見かけは華やかだろうと、棲息しているのはグロテスクな深海魚ばかり。信じられるものは自分。それにお金──。  女は椅子から立ち上がった。手にはしっかりと、体温の移ったボストンバッグを抱えていた。 「行くの?」ママが言った。 「はい。そろそろ夜も明けてきそうだし、ママのお勧めどおりそこらでハンバーガーか何か食べて、まずは腹拵えをすることにします」  深夜の一杯のコーヒーには、平気な顔をして郷里の喫茶店で飲むそれの三、四倍の値段がつけられていた。勘定を済ませて店を出て、女はいっぺんあたりをぐるっと見まわした。白々と、夜が明けつつあった。車の少ない明け方の通りは、闇が剥げたぶん薄青く、いくらか幻想的でもある。が、その清澄な青の中にも、通りに吹き溜まる塵芥が浮かび上がって見えた。通りの向こうのマックの明かりが目にはいった。次はあれを目指して行こう。  通りを渡る前、女は振り返って、今出てきたばかりの喫茶店の名前を見た。 「25時」──。どこかで聞き覚えのあるような言葉。二十五時、喜びも哀しみも超越した無色の時……違っただろうか。  この先何度切りつけられてももう傷つくまい、心にそう誓いながら通りを渡る。今夜不意打ちのように切りつけられた痛みは、今もって女の中から消えてはいなかった。決して心地よい感触ではない。けれどもその痛みが、これから自分を支えていってくれそうな気もしていた。  もうじき、この街に朝がやってくる。昨日とは、別の一日。 [#改ページ]      1  新大久保の駅のホームに降り立った時、香苗《かなえ》は思わず大きく息を吸い込んでいた。鼻孔に雪崩《なだ》れ込んでくる埃っぽくてざらついた空気の中に、紛れもないふるさとの匂いを鋭敏に嗅ぎつけて、懐かしさを覚える。次の瞬間、そんな自分に対する苦笑が、顔の上に滲み出していた。汚れきった空気を肺いっぱいに吸い込んで、懐かしさを覚えている自分が滑稽だった。排ガス、塵、埃。エアコン、換気扇の吐き出す濁った熱気。饐《す》えたような食べ物の臭気。油、大蒜《にんにく》、韮《にら》の匂い。人の体臭とコロンの混じり合った粘っこい薫り……。ただただ雑多な都会の匂いが凝縮され、あたりにたなびき沈澱しているだけのこと。にもかかわらず香苗の鼻は、東京の他の街と似たり寄ったりのこの街に、大久保固有の匂いを嗅ぎ分ける。  香苗は、物心ついた時からここにいた。嫁ぐ年までここで過ごした。たとえそれがいかにふるさとと呼ぶにふさわしくない街だとしても、やはり大久保は香苗にとってはふるさとだった。  駅の階段を降りて改札を出る。いきなりの人込みと混雑に、少しばかり圧倒される。駅前で催し物でもあるのかと思うような人の頭、頭、頭。目の前の大久保通りは車ですっかり埋め尽くされて、まるで流れの滞った川のようだった。昔から、人の多い街ではあった。が、こんなにも人で溢れかえっていただろうか。しばらく田舎の暮らしに埋没していたから、今の賑わいがことさらのように思われるだけなのかもしれない。ただ、かつてよりも街に色がついたことは確かなような気がした。昔大久保は、もっと灰色で、殺伐としていた。あたり一面、砂塵に覆われているような色のない街だった。それにくらべて今の大久保は、色に満ちた街になった。原色の看板、カラフルな服装の若者、華やかな化粧をした娘、黄色、金色……思い思いの色に染めた髪。染めずして髪の色も肌の色も違う人間たちも、街には多い。以前よりも間違いなく国の種類がふえた。中国、台湾、韓国、タイ、フィリピン、マレーシア、バングラデシュ……ブラジル、コロンビア……国籍不詳。それがこの街の体臭を、より複雑なものにしている。いつの間にか大久保は、アジアの体臭を漂わせる街になった。ただし、大陸のアジアの都市の街角に感じられるような熱気やエネルギーはない。色目は派手になったけれど、昔ながらの病み疲れたような灰色の倦怠が、依然として街の底流に流れている。香苗に言わせれば、それが紛れもない大久保の匂いというものだった。 「おかあさん、ここが東京?」  かたわらの真穂《まほ》の言葉に我に返る。ちょっと手を握るようにして、香苗は自分の掌の中の真穂の手の感触を確かめた。出ていった時は一人、帰ってきた時は二人。それがたぶん一番大きな違いだった。 「そう。ここが東京よ」真穂に答えて香苗は言った。  ふうんという、納得のいかぬような真穂の声。見るといくぶん唇を突き出して、眉間と眸《ひとみ》にも疑わしげな昏《くら》さを湛えていた。そうかもしれなかった。真穂がテレビで目にしていた東京は、新宿は新宿でも大久保ではない。それに渋谷、原宿、六本木……画面の中の東京は、もっとお洒落で垢抜けていて、洗練された活気を呈していた。 「そうね、ここも東京」香苗は言い直した。「いろいろなところがあるのよ、東京はとっても広いから」 「ここも東京……。だったら真穂たち、これからここで暮らすの? 東京のここで?」 「そう。ここには、真穂のおばあちゃんが住んでいるからね。当分は、真穂とおばあちゃんとおかあさんと三人で、この街で暮らしていくのよ」  真穂の眉根は寄ったままだった。眸からも訝《いぶか》しげな色が消えていかない。まだ七歳、小学校の一年生。新学期が始まれば、小学校二年生になる。いずれにしてもまだ小さな子供。けれどもこういう時真穂は、まるで大人みたいな顔つきをする。きめが細かく、抜けるような白い肌、金色の産毛、深く黒い眸、赤い唇……。私の天使──、香苗は、真穂の艶々とした黒い頭を撫でた。それから、また真穂の手を掴み直す。 「さ、いこうか。おばあちゃんも、きっとそろそろ来る頃だろうと思って待っているわ」  消毒液の匂いのするガードを潜り、香苗は大久保通りに沿って歩きだした。真穂を連れ、おまけに荷物も持っているものだから、人と肩を触れ合わさずに舗道を歩いてゆくのはひと苦労だった。呆れるほど、人は後から後から湧いてくる。しかもすれ違う人の半分以上と言っていいぐらいに、顔立ちがどこか日本人とは異なって見える。ペゴッパーチューゲッソヨ……アライナッカー? ペンパイノイ……舗道には香苗には意味をなさない言語が飛び交い、耳を掠めて通り過ぎてゆく。  じきに右手が重くなり、真穂の足取りの鈍りを香苗に伝えた。覗き込むと、雑踏と喧騒にうんざりしたような真穂の顔があった。長旅で、この子も疲れているのだと思う。茨城から東京、たいした距離ではない。それでも真穂にとってはやはり旅に等しいものだったろうし、これを契機に自分の暮らしが大きく変わってしまうことを、この子も肌で感じていたにちがいない。そういうことには、真穂はすこぶる勘がよい。 「もうちょっとだから頑張ってね」  真穂は返事をしなかった。相変わらず暗い不機嫌な顔のまま、ただしそれ以上は足取りを鈍らせることもなく、黙って手を引かれる方向へ歩き続ける。香苗はふと、胸に痛みに似たものを覚えた。親が子供の人生を翻弄することだけはすまいと、ずっと思い続けてきたというのに。  途中、大久保通りを左に折れ、住宅地の中へはいった。そこから少し奥へと歩く。と、香苗の目の中に、見覚えのある風景が開けてきた。細い通りを挟んで並ぶ住宅、アパート、電信柱の向こうの木の緑……その右側の五階建てのマンション、「大久保東レジデンス」──。 「さ、着いた。ここよ、おばあちゃんのマンション」  香苗の言葉に、真穂は四角いコンクリートの建物を見上げた。顔の上には、先刻よりも更に深い不満と落胆の色が、翳となって落ちている。香苗も、しばし黙ってマンションの建物を眺める。灰色をしたマンションの建物は、ところどころ塗装が剥げ、ひび割れたかさぶたのような亀裂がはいって浮き上がっていた。各部屋の窓の軒下からは、汚れた汗の滴りのような跡が、黒く長い尾を引いている。緑の苔が浮いた壁、ペンキが剥げて錆の入った手摺り……。  嫁ぐ前まで、香苗も暮らしていたマンションだ。が、十年ぶりに見るそれは、かつてとはずいぶん面変わりしてしまっているようだった。小学校五年生の時に、同じ大久保町内のアパートからここへ引っ越してきた。あの時は、確か新築のマンションだったはずだから、できておよそ二十余年。それだけの歳月が流れれば汚れもしようという思いと、その倍も老け込んでしまったという思いとが、胸の中で入り交じる。昔から人の出入りの激しいマンションだったから、香苗の知っている住人など、恐らくもう誰も残っていないだろう。場所柄、ここは賃貸マンションだ。そこに母の時枝は、二十年以上もの間住み続けている。払い続けた家賃の総額で、どこか別のところに、マンションの部屋ひとつぐらいは買えただろうに。 「行こうか」心持ち力を失った声で香苗は言った。「おばあちゃんのうち、このマンションの四階だから」  各戸のメールボックスの並んだ、エントランスとも呼びがたいような入口部分の空間、エレベータ前のスペースは昼だというのに灯りが欲しいぐらいに薄暗かった。砂埃でざらざらした床、その上に落ちて散らばったチラシ、煤けて黒くなった象牙色のエレベータの扉……閑散とした中に荒廃の匂いが漂う。都落ち──、思わずそんな言葉が頭に浮かぶ。馬鹿な、と、すぐさま香苗はそれを打ち消した。茨城の田舎町から東京のど真ん中へと戻ってきたのだ、都落ちとは正反対ではないか。けれども、敗軍の将であることは事実かもしれない。いや、将でもない。  鉄の箱のような旧式のエレベータに乗り込む。仰々しいボタン、ウィーンと唸る電気音は、工場のリフトを想起させた。  四階に着き、時枝の家、香苗にとっては実家に当たる四〇五号室へと歩きだす。電話では何度か話をしている。しかし時枝に会うのは、実に十年ぶりのことだった。  ほんの少しだけ緊張した指で呼び鈴を鳴らす。はぁい、という返事があってからやや間があり、やがて静かにドアが開いた。そのドアの隙間に、十年の歳月を経た時枝の顔が覗いた。最初に目と目が合い、それが瞬時に互いと互いを確かめ合う。刹那、母娘の無言の情のようなものが通い合うのを香苗は感じた。 「おかあさん……ただいま」気持ち頭を下げながら、香苗は言った。「本当に、ご無沙汰しました」  おかえりと、時枝は香苗に向かって笑みを浮かべて見せた。目尻にできる皺が、以前よりも濃くなっていた。頬からも肉が削げ落ち、三、四キロは痩せたような印象だ。昔から長くしていた髪もいくらか元気を失って、少し荒れているように見える。時枝も今年、六十になる。しかし、想像していたよりは歳をとっていない。瞳にも輝きがあるし、肌にも艶がある。表情にも勢いがあって、そこここに若さの名残りの如きものがうかがえる。このマンションのくたびれ方よりはずいぶんとマシ……そのことに、香苗は安堵を覚えた。喧嘩もした。親不孝もした。憎んですらいた。けれども時枝と香苗は実の母娘。虫のいい話かも知れない。しかし一度は嫌ったその血の繋がりが、今は無条件に縋れる唯一の絆のように思われる。 「真穂、おばあちゃんよ。ご挨拶なさい」  香苗は自分のうしろに半分隠れるようにしていた真穂を、促すように前へ押し出した。生まれたばかりの頃、写真は一、二度送ったことがある。しかし、時枝が真穂をじかに見るのは初めてのこと、当然真穂もまた、時枝に会うのは初めてだった。  おばあちゃん、こんにちは──、真穂がぺこりと頭を下げた。時枝は笑みを浮かべ、身を屈めるようにして、真穂の顔を覗き込んだ。まるでこの時を人生の楽しみに待ちかねていたというような横顔。 「いらっしゃい、真穂ちゃん。よく来たわね。さあ、中に……」  目の錯覚だろうか、言葉半ばにして時枝の顔に浮かんでいた笑みが潮が退くようにすっと内側に引き取られ、見事に消えてゆくのを見た気がした。しかも笑みの消えた直後の顔は、凍りついたように冷えた色をしていた。香苗の神経がぎくりとなり、反射的に身が強張った。どうして?……香苗は時枝の顔をじっと見た。打ち返す波のように、一度引き取られた笑みが、改めて時枝の顔の上に浮かんできた。とはいえ最初の笑みからすれば残滓のようにわずかな量でしかなかったし、加えてどこかぎこちなかった。 「いつまでもそんなところに立っていないで、とにかく中にお上がりなさいな」急速に色の失せた声で時枝は言った。  香苗は頷き、まず真穂を部屋に上がらせ、続いて自分も靴を脱いだ。半分中に上がりかけ、ちらりとうかがうように時枝に目をやる。時枝は二人に背を向けて、早くもお茶の支度にとりかかっていた。香苗は黙ってその後ろ姿を見た。背中に目鼻はなく、表情もない。が、時枝の背は閉ざされて、いくぶんひきつったような顔をしているように香苗の目には映った。  何もかも思い過ごし、この頃私は少し神経質になり過ぎている──、香苗は心の内で首を横に振った。真穂は美しい子供だ。親の贔屓目《ひいきめ》を差し引いても、かなりの美少女の部類にはいるだろう。真穂に初めて会った人は誰しも、その子供離れした美しさに驚きの表情を見せるほどだ。孫はただでさえかわいいという。それが見た目にもこれほどかわいらしかったらなおのこと、いとおしいと思わないはずがない。真穂を見る時枝の顔に能面のような冷やかなものを見たと思うのは自分の見間違い、あるいは僻《ひが》み根性というものだ。  香苗は気分を切り替えて、目を部屋の中へと移した。この部屋の天井は低く、あまり日も差し込まない。現にそこに身を置いてみてから、香苗はそのことを思い出した。その部屋の薄暗さが、重たるく頭の上にのしかかってくる。それを振り払おうとするかのようにちょっと深く息を吸い込み、香苗は意図して明るい笑みを浮かべ、弾むような声で真穂に言った。 「真穂、ここがね、おかあさんが育ったうちなのよ」  返事は、なかった。真穂も時枝も、香苗の存在を忘れたかのようにそれぞれ香苗に背を向けて、自分自身の中にいる。鈍色《にびいろ》に曇った部屋の空気の中で、とってつけたみたいな香苗の明るい声だけが浮き上がり、行き場を失い、惑っていた。      2  人の記憶というのは曖昧でいい加減なものだった。「大久保東レジデンス」も四〇五号の部屋も、そして時枝も、香苗の記憶の中のそれと現実のそれとの間には、微妙な齟齬《そご》のようなものがあった。まるで現実に目にした途端にすべて乾涸《ひから》び、煤けて埃をかぶってしまったような感じ。むろん、十年の歳月というものが及ぼした影響は否めない。そのぶん、建物の外壁は雨風や汚れた空気に晒され、内壁は油や脂に燻《いぶ》され、水まわりは錆を含んだ澱《おり》に赤く染められた。時枝にしても同じことで、当然流れた月日のぶんだけ歳をとった。だが、時がもたらした変化とはまた別の、記憶違いのようなものが確かにあった気がする。恐らくは十年離れている間に頭の中で、香苗は現実とはやや異なるいくぶん美化された像を、知らず知らずに作り上げていたのだと思う。それでいて何分かそこに身を置き眺めていると、もともとそれが当然というように、たちまち感覚が現実の姿に馴染んでいく。ただし、馴染んでいく気持ちの中に、落胆に似た思いがないではなかった。落胆というよりも、失望を含んだ諦めというべきか。  物が多く、せせこましくて使い勝手のよくない薄暗いキッチン。ダイニングの床の趣味の悪いビニタイル。昔からある古ぼけた食器棚、テーブル、年季の入った電気炊飯器、冷蔵庫、電子レンジ……。換気が悪く、湿気が籠もって黴《かび》の出易い狭い風呂、洗面所。小さな穴蔵みたいな暗いトイレ。その隣の、四畳半もない時枝の衣装部屋兼ベッドルーム、ここは一日中、日がまったく差さない。南の和室は居間兼時枝の居室。その隣の洋間が、かつての香苗の部屋だった。覗いてみると、香苗が以前に使っていた洋服ダンスと本棚とが、昔のままに置かれていた。両方ともあちこち細かな傷がついているし、油と埃とが表面を覆って、今では薄いセピアの膜をかぶったような色合いになっている。その横には、香苗のスチール製の学習机までもがまだあった。懐かしい、とは思わなかった。それよりも、からだの内側からじんわり疲れが滲み出してくる。人生の仕切り直し──、そんな思いで東京に帰ってきた。けれども、待っていたのは薄汚れて埃をかぶった過去。何もかも新しくやり直すことなどできないのだと、鼻先に灰色の現実を突きつけられているような気分だった。 「その部屋を、あんたと真穂ちゃん、二人で使ってもらうより仕方がないんだけど」横から顔を覗かせて時枝が言った。「ご承知のように、何せここは狭いから」 「わかってる」香苗は答えた。「たいして荷物もないし、まずは母子二人寝られればそれで充分」 「タンスや棚の中のものは全部出した。一応掃除もしてある。でも、カーテンなんかは替えなかった。そのうち自分たちの好きなのを買えばいいかと思って」  ありがとう、と香苗は言った。何日か前までは、この洋間も時枝の物で埋まっていたのだろう。それを香苗たちのためにどこかへ動かし空けてくれたのに違いない。それだけでもありがたく思わなくてはいけないとわかってはいるのだが、からだの芯から勝手に滲み出す疲れは止められず、徐々に気力が失せていく。家は、思っていた以上に狭苦しく、物に溢れ、窮屈だった。天井が低く、空気が滞っているのも息苦しい。 「お茶、はいってる。先に飲んだらどう?」時枝が言った。「真穂ちゃんは何がいいんだかよくわからないんだけど、ジュースでもなんでも、あるものは好きに飲んで構わないから」  覗いてみると冷蔵庫には、いく種類かのジュースがはいっていた。どれも時枝が飲むものとは思えない。時枝は時枝で真穂のことを考えて、用意しておいてくれたのだろう。やはり時枝は真穂を待っていた、そう考えて、香苗は半ば強制的に自分自身を元気づけようとした。 「真穂。真穂は何をいただく?」気をとり直したような声で香苗は言った。 「真穂も今はお茶にする」 「お茶?」 「うん」真穂はにっこり笑って頷いた。「おばあちゃんが淹《い》れてくれたお茶を真穂もいただく」  わが子ながら、時として香苗も真穂には驚かされる。先刻までのくすんだ表情が信じられないような完璧な笑み。しかも滅多に緑茶など飲みたがらない真穂が、時枝の淹れたお茶を飲むという。この子はこの子なりに物事を考えて、そのうえでものを言っているのだと思うと逆に不憫を覚える。時枝はといえば、真穂にちらりと目を走らせはしたが言葉はなく、顔も能面のように動きがなかった。やはり真穂を見る目に温《ぬく》みはない。少なくとも、香苗の目にはそう映る。そのことが、香苗の想像と現実の一番大きな齟齬だったかもしれない。  やめて、おかあさん、そんな目をして真穂を見ないで。真穂はたった一人のおかあさんの孫。おかあさんは真穂がくるのを楽しみに待っていた。そうでしょ?……あえて時枝の顔には目を向けず、心の中で香苗は語りかける。そうしながら、自分の中によくない記憶が甦りつつあるのを何とか抑え込もうとしていた。あれは自分の僻《ひが》みだったのだと、香苗もここ数年でようやく、そう思うことができるようになっていた。記憶の中で家を美化していたのと同様に、やはり時枝のことも美化していたのだろうか。だんだん自信がなくなってくる。  時枝と香苗は、決して仲のよい母娘ではなかった。いつ、どうしてそうなってしまったのか、今となってはさだかでない。ただ、自分たちの暮らしが世間一般から見て普通でないと気がついた時、香苗の中で時枝との間に溝のようなものができた。だとすれば、溝を作ったのは香苗自身の心と言えるのかもしれない。だが、時枝もその溝を埋め、自分からこちらに歩み寄ってこようとする努力をしなかった。  大久保が、香苗の世界のすべてであった時期もあった。小学校や中学校の時、同じクラスには「ホテル麗羅」の娘がいたし、「ゲームセンターJ」の息子がいた。飲食店、水商売の息子や娘もいれば、競馬の予想屋、ゲーム喫茶のオーナー、ビニ本、アダルトビデオの取次店……もっと得体の知れない、子供には想像もつかないような商売の家の子供たちも大勢いた。ゲームセンターに出入りしてはいけないと注意した生活指導の教師に対して、「それじゃあ俺は家に帰れねえなぁ」とうそぶいてみせた春山秀浩、彼は今頃どうしているだろう。何でもありだし、どんな家庭もあり、それがこの街、大久保だった。むろん香苗のところのように、片親だけという家庭もあった。だから香苗も母娘二人という自分の生活形態を、とりたてて特別なこととは感じていなかった。仲がよかった森田美奈、彼女の家も母娘二人暮らしだった。家に遊びに行くと母親はたいがい留守で、雑然と物がひしめく狭いアパートの部屋にはタンスにはいりきらない派手なドレスが突っ張り棒にずらりと架けられていて、壮観だった。部屋には場違いな感じのする大きくて立派な三面鏡。その前に座ってホットカーラーで髪を巻いたり、化粧をしたり……それが香苗たちの密かな楽しいお遊びだった。お腹が空けば缶の中の菓子を勝手に食べた。与えられたいくつかの百円玉を手に、おでんを買いに走ったりもした。それが日常。  友だちは、何の前触れもなくこの街からいなくなることもあれば、降って湧いたようにやってくることもあった。そんなことなど日常茶飯事で、いちいち心を動かしてはいられなかった。だから森田美奈が不意に消えた時も、香苗はさして悲しんだりしなかった。今はもう、当時の同級生のほとんどが、この街から消えてしまったのではあるまいか。香苗にしても十年前には消えていたし、本来ここへ戻ってくるはずでもなかった。  当たり前の日常が当たり前と思えなくなったのは、高校に上がった頃のことだった。え、大久保? すごいところに住んでいるんだね。私、あんなところ怖くて一人じゃ歩けない……友だちからのそんな言われ方。朝、背広を着て会社に出かけて行くお父さんがいる。学校から帰れば、エプロン姿で迎えてくれるお母さんがいる。夕刻近くには夕餉《ゆうげ》の温《あたた》かな匂いが漂ってきて、階下から「ごはんよ」と呼ぶ声がする。兄弟姉妹揃って囲む夕飯の食卓。蜜柑色がかった温かみのある灯り、テーブルの上を往来《ゆきき》する声、笑いさざめき。親の関心はひとえに子供たちに向けられている。学校での生活、成績、進路、そして未来……。それが世の一般の家庭、生活なのだと知った時、香苗の中で一度にこれまでの常識が覆った。それにつれ、大久保という街が嫌いになった。時枝のことも嫌いになった。  かつて、マンションの横の通りの向かい角は、昔ながらの下宿屋タイプの木造二階建てのアパートだった。ひと部屋に七、八人ものアジア人が暮らしていて、一階入口の沓《くつ》脱ぎには、いつも何十足もの靴が脱ぎ散らかされて転がっていた。アパートの住人は、フィリピン人だったかと思うと韓国人になり、中国人だったかと思うとタイ人になっていたりする。ほかにも似たようなアパートがそこここにあったし、通りを一歩向こうへ渡ればラブホテルが軒を並べていた。そんなところで生活していれば、次第に子供の常識だって狂ってくる。親ならそれを心配してしかるべきだった。けれども時枝は、環境だの教育だのにはまるで関心のない母親だった。雨露凌げる家があって、命を繋ぐに充分な食べものがあり、着るものを着て学校に通えているのだからそれで充分──。広い世界に目を向けてみるならば、時枝の考え方は間違っていなかったのかもしれない。だが、豊かな日本社会にあっては、自分だけが蔑《ないがし》ろにされているようなやりきれなさを募らせざるを得なかった。  食べてはいても肉屋のコロッケ、メンチ、パン屋の店先で蒸《ふ》かした肉まん、餡まん。弁当さえもができあいの惣菜の詰め直し。調理パンを買えと、小銭を手渡されたこともある。母親手作りの手さげ袋など、一度として持たされた覚えがない。それどころか学校に持ってゆく雑巾さえもが、縫ってもいないただのタオルだった。確かに、働いて金を稼ぎ、香苗を食べさせ育てているのは時枝だった。香苗は短大にまで行かせてもらった。親の務めは充分果たしていたかもしれない。しかし、勝手に結婚をして子供を産み、離婚したのも時枝だった。自分はこの人の勝手に振りまわされて割を喰っている──、だんだんにそんな思いが膨らんできて、時枝に反発を覚えるようになっていった。世間を知り、世の常識というものに染まれば染まるほど、時枝に対する反発は、憎悪に近いものへと育っていった。「母親」という規格から大きく外れている時枝という母が、我慢ならないものに思えたのだ。  祖父母や伯父、伯母、いとこ……そんな逃げ場でもあればまた違っていたかもしれない。香苗にはそれすらなかった。時枝はかつて新潟の旧家に嫁いだ。しかし、その家との折り合いが悪く、香苗が生まれるとすぐに嫁ぎ先を飛び出して、東京へ出てきてしまった。三十二年前、時枝が二十七の時のことだ。嫁ぎ先の首藤《しゆどう》家とは完全に縁を切り、以来どんな交渉も持っていない。したがって、香苗は実の父親の顔を知らない。声を知らない。筆《て》も知らない。もともとあんたには父親なんていないのよ、それが時枝の言い種《ぐさ》だった。不可解なのは、その離婚を機に、時枝が自分の実家との縁まで絶ってしまったことだった。実家の山上家も、同じ新潟にあるらしい。ことによると山上家は、首藤の家になにがしかの借りなり恩義があったのかもしれない。首藤の家を飛び出したことで、時枝は山上の家の面目まで潰してしまった……。何ひとつ具体的には知らされていないから、詳しいことはわからない。知り得たことから推測するのみだ。いずれにしても香苗には、祖父母はもちろん親戚というものもきれいさっぱりまるでなかった。そのことの異常さには、子供の時分から気がついていた。  時枝は、自分の仕事についても一切話をしない母親だった。どういう仕事をしているのか、時枝の口から直接聞いたことは大人になるまでほとんどなかった。が、聞かなくても、時枝がこの街で何をして生きてきたかは自然と耳にはいってくるものだし、子供を抱えた女が一人、ここで金を稼ぐ方法だって限られている。時枝は始終かけ持ちで仕事をしていたし、ある程度金ができたらできたでその次は、金や人をまわす仕事にも手を出していた。店も持った。最後に落ち着いたのが、深夜営業の喫茶店。時枝は、一日過ごせば一日分、この街の匂いを身につけていく種類の人間だった。だからまるでこの街そのもの、猥雑で無秩序で、陽の当たる部分よりも闇の部分のほうが大きく勢いがある。時枝も、金を拾うためには一般社会のモラルなど平気で無視する夜光虫だった。そのことに何ら疑問を持たない時枝が、自分の母であることが香苗には堪えがたかった。早くこの街を出たいと思った。時枝から離れたいと思った。そして二十三の時に、結婚という形でそれを果たした。子供だったのだ。親に反発することも、反発をもとに自分の人生を決めてしまうことも、大人の人間がすることではない。人生、思いのままにいくものではない。香苗も遅まきながらそのことを悟った。だから今なら逆に、時枝とうまくやっていけそうな気がしていた。時枝も六十を機に店を人に任せ、少しはのんびりしようと思うと電話で香苗に語っていた。そんなことを言うのは時枝が歳をとった証拠、かつての母は金の気配がしただけでもぞもぞせずにはいられずに、常に何かにせきたてられるように動きまわっていた。時枝が若くて元気のよい時ならばともかくも、今なら実の娘と孫がすぐそばにいるということは、決して悪いことではないと考えた。老いていくこの先を考えれば、それは時枝にとっても喜ばしいことにちがいない。今度こそ、時枝との母娘関係をやり直すのだ。過去、確執はあった。そうはいっても時枝と香苗は実の母娘。真穂はたった一人の実の孫だ。血の繋がった女三世代水入らずの暮らしもきっといい。真穂は母娘の関係修復の、いわば切り札みたいなものだった。 「──さて、それじゃ私、ちょっと出かけてくるから」お茶を飲むのもそこそこに、時枝がやおら腰を上げた。 「え? 出かけるの?」驚いたように香苗は時枝を見た。 「うん。ちょっと人と会わなきゃならない用事ができちゃってね。冷蔵庫にあるもので夕飯作って、二人で勝手に食べてよ。外に食べに行くならそれでもいいし」 「……おかあさんは?」 「私は、外で済ませてくる」 「そう」薄ぼやけた失望が、靄の如く胸を漂い流れていく。「相変わらず、忙しいのね」 「まあ、何だかんだね」 「店、そろそろ人に任せることにしたんじゃなかったの?」 「もう半分任せてはいるのよ。だけど、何もかもすぐにっていう訳にはいかないし」  時枝は手早く身支度を済ませると、香苗と真穂を部屋に残し、そそくさと出かけてしまった。その様子は昨日までの日常そのまま、香苗や真穂が来たことぐらいでは時枝の営々たる日常は少しも揺るぎはしないという風情だった。  香苗の頬の筋肉が、自然とたるんで落ちていく。音のない溜息。せめて十年ぶりに再会した日の晩ぐらい、手作りのとまでは言わないものの、一緒に夕飯を摂るぐらいのことはできないものか。  時枝の日常に、自分の都合で勝手にはいり込んできたのは香苗のほうだ。だからこれもたぶん香苗のわがままだろう。頭では理解していても、少女時代に抱き続けていた感覚が、胸にまざまざ甦る。自分は時枝に愛されていない──、常に香苗が感じ続けてきた思い。ようやく忘れかけていたいやな肌の記憶だった。  おかあさん、私をあんまりがっかりさせないでよ……香苗は思わず心の中で呟いた。嫁ぎ先から子連れで家へ帰ってきた娘。久方ぶりの再会。過去の確執を越え、互いに腕をひろげ合い、血の絆を確かめ合う。娘を迎える母の深い眼差し、孫に向けられた手放しの笑顔。長年離れていたことが逆にもたらした互いへの深い理解。真穂を間に挟んだ、母、娘、孫、三人の、新たな真の家族関係。そんな香苗のシナリオが、再会して一時間経つか経たないかのうち、無残な形で崩れていく。それは香苗が自分一人で書いた、ひとりよがりのシナリオだったのかもしれない。しかしながら、失意の中で抱くことのできた唯一の希望だったし、常識を下敷きにした至極真っ当なシナリオのつもりでいた。 「おばあちゃん、名前、時枝っていうの?」不意に真穂が言った。  そうよ、と香苗が頷く。 「ふうん……私、会ったことあるよ」 「え?」思わず香苗の眉が寄る。「会ったことあるって、誰に?」 「だから……おばあちゃんに」 「まさか」  茨城に嫁いでからこの十年、母娘は完全なまでの没交渉にあった。時枝と真穂、二人が会うのは今日が初めてという事実に、間違いがはいり込む余地がない。  なのに真穂は言う。「でも真穂、おばあちゃんのこと知ってる」 「そんな訳ないんだけどな。会ったって真穂、それ、いつのこと?」  真穂はちょっと考えるような面持ちをして、黙ったままわずかに首を傾げた。何かを懸命に思い出そうとしているような、妙に大人びた顔つきだった。 「忘れちゃった」果てに真穂は言った。「とにかく、ずっとずっと前」 「ずっとずっと前って……」 「きっとおばあちゃんも、その時のこと覚えていると思うな」  話していると、香苗も真穂の拵えた話の迷路にはいり込みそうになる。不意に不憫さがこみ上げてきて、香苗は真穂の頭を腕で引き寄せるようにして、その長い髪を撫でた。 「やだ、おかあさん。なぁに、急に?」 「何でもない。ただ真穂がかわいい、かわいい、それだけのこと」  本当は、真穂を抱きしめ泣きたかった。可哀相な真穂、この子は病気なのだ。茨城の、あんな西納《にしのう》の家などで七年を過ごしたばっかりに、すっかり歪んで病気になってしまった。その病気が、この子に人には見えないものを見せ、ありもしない話をさせる。そのことも、香苗はまだ時枝に話せないままでいた。      3  短大を出て二年働くか働かないかで香苗は西納誠治との結婚を決め、勤めていた保険会社を退職した。誠治とは、学生時代にサークル活動を通じて知り合った。茨城県O町の県議会議員の息子。土地で西納といえば昔からの名家で、誠治はそこの長男だった。O町は太平洋岸の漁港で、漁業、農業、それに観光が主な産業だ。夏は東京からの海水浴客も大勢やってくる。西納の家は代々漁協では力を持っていて、現在県議を務めている誠治の父親の治一郎《じいちろう》も、かつては魚協の理事をしていたし、現在も県議の仕事のかたわら、地元で海産物の加工食品の会社を営んでいる。誠治もまた、大学を卒業するとO町に帰り、祖父や父、それに叔父たちと同じように漁協に勤め始めた。誠治もいつまでも魚協にいるつもりはない。いずれは父と同じ道、地盤を引き継ぐ恰好で県議となり、加工食品会社をも受け継ぐ……彼の人生のレールは明確だった。一緒に走るに悪いレールではない、と香苗は思った。  一方、香苗の側は片親、当時時枝は喫茶店を経営していたが、水商売であることにはちがいない。また、喫茶店以前の仕事のほうが、あちらにとってはより問題だったろう。スナック、デートクラブ、個人金融……当然のように、西納の家は香苗との結婚には反対だった。誠治の母親のちずは、時枝が新潟の出身ということにまで難癖をつけた。新潟のどこがいけないのか……誠治に尋ねてみても、理由は釈然としなかった。ちず本人にも、自身の嫌悪の根拠がはっきりとしていない様子だった。要は香苗の何もかもが気に入らなかったのだと思う。それを押しての結婚。もともとが意に染まない嫌われ者の嫁だ、向こうで風当たりの強くない道理がない。ちずの当たりようはひと通りでなく、内心香苗を西納の嫁と認めてもいなかった。香苗の扱われ方は使用人以下、いや、人間以下だったと言っていい。それでいてふた言めには「西納の嫁、西納の嫁」と、香苗を忙殺しようとしているのではあるまいかと思うぐらいに、雑用の類は何でも押しつけた。いわば歯向かうことが許されない無報酬の家政婦だ。  それでも香苗は十年の間耐えた。この先も、いつの日か自分が西納の家の奥向きの実権を握る時を楽しみに、何が何でも頑張り抜くつもりでもいた。香苗の望みは誠治の妻になることでも西納の嫁になることでもなかった。西納の「奥様」になること。その道半ばにしての離婚。頑張りきれなかったのはそんな女の意地以上に、守らねばならない大切なものがあったからだ。真穂──。  生まれたばかりの頃は、ちずも真穂のことをかわいがっていた。何せ真穂は誠治の子、ちずの血を引く西納の子だ。加えて真穂は、掛け値なしにかわいらしい赤ん坊だった。まるでからだ全体が光に包まれているように金色の産毛が輝いて、この子は何か特別な子供ではあるまいかと思いたくなるほどに眩《まばゆ》かった。鬼でもない限り、あれだけ美しい赤ん坊を疎《うと》んじることなどできはしない。  物心つきだす時分になると、真穂には西納の人間としてどこに出しても恥ずかしくない娘になってもらわなければ困るからと、ちずは真穂に対する教育は自分がすると言いだした。たとえいかに厳しかろうと、教育、躾《しつけ》ならば、香苗だって文句は言わない。だが、それが躾という大義名分を持ったいじめに発展するのにそう時間はかからなかった。真穂の左利きが気に入らない。思い返すに、それがそもそもの始まりではなかったか。世の中には、先天的な左利きというのがいる。欧米ではそんなことなど当たり前で、ひとつの個性ぐらいにしか受け取られていない。日本でも近頃は左利き用の鋏や包丁が小売店で簡単に手にはいるぐらいに、普通のことになりつつある。だが、ちずは違った。 「西納に左利きの人間なんかいない。私の実家の久慈にもいない」  ちずは嫌悪の色をあらわにした。久慈家は水戸徳川家とは縁筋に当たる家柄、もとを糺《ただ》せば公家だという。それだけに、ちずが目の色変えて「左利き」を云々するというのは、香苗の血が賤しいがゆえと腐されているのも同然だった。その証拠に、ちずは真穂の左手を物差しでびしびし叩き、紐で括りつけて動きを封じてでも、左利きを直そうとした。 「人前で左手を使われでもした日には、私が恥を掻く」  先天性の左利きの無理な矯正は、子供の心身に影響を及ぼすこともある。じきに真穂は右手で箸や鉛筆を使おうとすると、手ががくがくと震えるようになった。それを止めようとして懸命になると、余計に震えが大きくなるばかりではなく、今度は目の下あたりに痙攣が走る。子供が顔を歪めて頬を痙攣させている様は、母親として見るに忍びないものがあった。 「本当に強情な子よ」  しかし、ちずに真穂の努力を評価する気持ちはまったくなかった。 「これだけ言い聞かせても、この子は私の見ていないところで左手を使う。そもそもこの子は性根が曲がっている。子供のくせに気持ちの悪いしなを作ったり、作り話をしたり……大人の顔色を見ておもねって、取り入ろうとする。かわいげがないばかりか品がない。見ていて私はぞっとする」  もしも真穂にちずの言うような点が少しでもあるとするならば、ああでもないこうでもないと真穂をいじくって、盆栽みたいに矮小歪曲させてしまったのは、ほかでもないちずだ。にもかかわらず、ちずは聞こえよがしに香苗に言った。「この子、本当に西納の血を引く、誠治の子供なのかしらね。だってこの子は誠治に全然似ていない。私にもお父さんにも誰にも似ていない。──そう言えば、真穂は香苗さんにも似ていないわねぇ。いったいどこの誰の血を、こんなにも濃く引いているのやら。孫が他人の顔をしているだなんて、情けなくて涙が出る」  確かに真穂は、誠治にも香苗にも似ていない。見ていて香苗自身、ふと不思議な思いに駆られることもなくはなかった。言うなれば真穂は、ふた親を越えた美しい見目形を神から授かって生まれてきた。が、むろん真穂は誠治と香苗の子供だ。そのことは、当然ちずにもわかっていただろう。ただ、ちずは香苗の神経を逆撫でする言葉を吐くことを、無上の喜びとしていた。それも細くて甲高い声を潜めるようにしてねちねちと、いつまでも際限なく言い続ける。本人は鈴の転がるような上品な声と思っているかもしれないが、あの声もまた、香苗の神経を逆撫でせずにはおかなかった。お蔭で香苗は言葉のお尻がぴゅっと持ち上がるような茨城弁独特の音感まで、すっかり嫌いになってしまった。今では茨城弁を耳にしただけで虫酸《むしず》が走る。いや、香苗自身の気持ちはどうでもよかった。自分が我慢しさえすれば済むことだ。気掛かりなのは真穂のこと、小学校に上がって間もなく、香苗は担任教諭から呼び出された。それが香苗に決断を迫り、結論と行動を急がせた。 「白昼夢を見ているようなというか、時々現実を離れて夢の中に行ってしまうみたいな感じがあるんです」小島という担任の女性教諭は香苗に言った。「そういう時話しかけると真穂ちゃんは、妙に大人びた物憑かれしたような表情をして、夢物語みたいな話をしとしと切れ目なく話すんです。その内容もおばあさんが殺されたとか殺したとか、子供のする話としては、あんまり穏やかなものじゃなくて……。おたくではそういうことありませんか?」  それだけではない。時にチックのような症状も見られるし、自分でも訳がわかっていないような魂の抜けた顔をして、黙々と花壇の花を引っこ抜いたり、池の金魚を捕まえては次々外に放り出したりもしているという。クラスで飼っていた文鳥がみんな水に浸けられて殺されるという事件もあったと、いくぶん遠慮がちに小島は言った。 「それも真穂がやったとおっしゃるんですか?」 「いえ、もちろんそうは申しません」  ただ、文鳥が殺されていた前の日の放課後、真穂が教室に一人残り、鳥籠をいじっているのを見た生徒はいたらしい。 「お勉強のほうは問題ありませんし、知能の発育は標準以上、むしろ他の子供よりも進んでいるぐらいでしょう」小島は言った。「ですから、たぶん精神的な問題かと……。差し出がましいようですが、一度その方面の専門家の方に、ご相談になってみてはいかがでしょう? 私も十年あまり教師をやってきて、真穂ちゃんのケースは放置しておいてはいけないような気がしましたので」  おばあさん、殺した……聞いていて、ちずのことだと香苗は思った。言葉や行動で直接反撃できないだけに、ちずに対する怒りや憎しみが真穂の中でおかしな形で捩じ曲げられ、時として不明な言動となって身の表面に浮かび上がってきているのだ。母親として、危機感を覚えた。このままでは真穂が壊れる──。むろん誠治にも相談した。しかし彼はまともに取り合おうとはしなかった。子供など、誰でも自分勝手な幻想の中で生きているものだ。大人になればどんなやつも、みんなそこそこまともになっている。何も神経質になりすぎることはない。 「だけどあなた、やはり放ってはおけないわ」香苗は言った。「このうえお義母《かあ》さまが真穂にますます厳しく接したら、あの子は本当におかしくなってしまう」  けれども誠治は言う。お袋の言うことなんか、適当に聞き流しておいたらいい。真穂だってじきに、そうすることを覚えるさ。現に俺がそうだった。お袋に面と向かってこの話をしてみろ、また血筋がどうのこうのとつまらないことを言いだすに決まっている。医者にかかるなんて言ったら最後、西納の家に精神科の医者にかかるような人間はいないとかなんとか、間違いなしに大騒ぎだ。その手のことを言われるとお前だって、いつも顔をひきつらせるじゃないか。そんなことは、何も気にすることはありゃしない。水戸徳川だの公家だのはお袋の十八番、真偽のほどだって定かじゃないんだ。仮に本当だったとしても、昔の権力者なんていわば殺し合いを繰り返して生き残ってきた人殺しだ。普通の農民、漁民のほうが、血はよっぽどきれいなんだから……。  口だけだった。香苗にはそう言っても、誠治自身が西納の血筋というものにおぶさって生きている。だから親の前に出ると、誠治は治一郎にもちずにもまるで頭の上がらぬ甚六になる。いつも口にするのは同じこと、気にするな、そればかりで自分は何も言わず、見ぬふりをする。香苗は、そんな誠治にほとほと愛想が尽きた。一度だって彼は、表立って香苗の味方をしてくれたことがない。庇《かば》ってくれたことさえない。しかも今回問題は、自分の娘にまで及んでいるというのにそれだ。  彼の父親としての自覚のなさ、男としての骨のなさが、許しがたいものに思われた。だから香苗は真穂を連れて家を出る決心をした。この時ばかりはかつてのちずの言葉を逆手に取り、頑として真穂に対する権利の主張はさせなかった。真穂が誠治の子供ではない、西納の家の人間ではないと言いだしたのはちずのほう、ならば真穂はあちらには縁のない子だ。真穂は香苗が自分の手で育てる。慰謝料も、養育費も、何もいらない。手もとに真穂が残ればそれでいい。  そうなってみると、年端《としは》のいかぬ子供を抱えた香苗が帰り得るところは、時枝のところよりほかになかった。反目していた母の許、嫌っていたはずの薄汚れた猥雑なふるさと、新宿、大久保。  誠治との結婚を決めた時、呆れたような顔を見せた後、冷たく鼻でせせら笑った母だった。 「茨城の旧家? あんた、そんなものに釣られたわけ? まったくおめでたいね。よくもそんなところに嫁に行こうと思うこと。あんたが先々食べていくのに困らないように、行きたいというだけ学校にも行かせてやったけど、結局何の意味もなかった訳だ。まったく、どうして苦労しに行くだけだってことがわからないんだか」  違う。香苗は自分がまともな家庭に育たなかったから、周囲からも一目置かれるような、どこから見ても真っ当な家に憧れたのだ。もちろん、誠治のことも好きだったが、地方の旧家、地元の実力者、県議の家……自分がそこの家の一員になれることが嬉しかった。確かに苦労はするかもしれない。それでもいずれは西納の家の奥様だ。誰もぞんざいには扱えない。そのはずだった。  西納の家が誠治との結婚を認めるに当たって、最終的にひとつの条件として提示してきたのが、「これまでの生活は完全に断ち、西納の家の人間になるよう努めること」だった。即ち、母とはいえ、時枝とのつき合いはするなということだ。迷わず香苗はそれを飲んだ。実の娘の香苗のみならず、西納の家からも嫌われ、拒絶された母、時枝。結果としての十年間の没交渉。  けれども時枝は、香苗が真穂を連れて家に帰りたいと言った時、呆っ気ないほど簡単に、香苗の願いを聞き入れた。 「いいわよ、別に。こっちはあんたとの縁を切った訳じゃなし。ただし、狭いの何のは言わないでよね。不自由は承知ということならば、私のほうは構わないわよ」  それ見たことか、案の定……その種のことはただのひと言も言わなかった。ありがたかった。やはり本当の母娘だからこそ許されるのだと、受話器を手に胸を熱くもした。そのぶん香苗はついつい期待して、ご都合主義のシナリオを書いてしまった。  思えば時枝も新潟の旧家に嫁ぎ、家との反《そ》りが合わずに乳呑み児を抱えて飛び出してきた身の上だった。流れ着いたところがこの大久保。身勝手だと反発を覚えていた母と、今自分が同じ道筋をたどろうとしていることに香苗は気がついた。因果なこと、と胸の内で小さく呟く。生き抜くため、時枝はこの街そっくりのふてぶてしさを身につけていった。あれも半分は、養い育てていかねばならない香苗が存在したがゆえのことだったのだろうか。  違う気がした。それにしては、時枝はいつも開き直っていた。いざとなったら平気で尻をまくって命を賭して勝負に出るような、一種捨て鉢な気迫と凄味があった。あれが子供を守ろうとしている母親の顔だろうか。時に香苗に向かって放たれる突き放したような冷やかな眼差し、香苗は幾度も心に冷水を浴びせかけられたような思いを味わった。時枝に母性というものはないと、確信していた時期もあった。少なくとも自分はこの人に愛されてはいない。西納の家での日々が幸せではなかったから、香苗は自分にいいように、そうした日々やかつてのつらく寂しい思いを、たぶん忘れてしまっていただけだった。ことによると時枝もこの十年の空白で、自分が香苗を少しも愛してはいないし、ただ反目し合っているだけの母娘だったということを、忘れていたのかもしれない。が、いざ実際顔を合わせて現実を共有した途端に、互いに思い出したという訳だ。愛していない、愛されていない──。これだから記憶というのはあてにならない。  それにしたって……と溜息混じりに香苗は思った。時枝も真穂のことだけは、無条件に受け入れてくれると思った。それ以外のことなどこれっぽっちも考えてはいなかった。人目を惹きつけ、魅了せずにはおかないぐらいに愛らしく、美しい子供。その真穂の魔力も、実の祖母である時枝相手には通用しなかったという訳だ。昔から何事にも動じず、怯まず、たじろぐことのなかった母。喰えないことこのうえない女。時枝がひと筋縄でいくような女でなかったことを、香苗はいまさらのように思い出していた。      4  時枝は、カウンターの隅っこの席に腰を下ろすと、たて続けに二杯、小さなグラスでビールを呷《あお》った。「ハモニカ」──、雑居ビルの二階の、七、八坪ばかりのせせこましいスナックだ。昔ちょっと世話をした波恵という女がママをしている。それで時枝も波恵の顔見がてら、たまに店に顔を出す。間口の狭い、鰻の寝床のような細長い店だ。ボックス席など、設けようもない。カウンターが奥に向かって一列並んだだけの造り、だからハモニカ。時枝は、悪くないネーミングだと思っている。ビールを二杯飲んでひと息ついてから、煙草をふかした。気がつくと、たて続けに二本喫っていた。黒いガラスの灰皿の中に並んで横たわった吸殻を見ながら、いつの間に二本喫ったものかと、ふと考える。心が半分泳いでいる。 「ママ、今日はどうかしたの?」カウンターの内側から、波恵が声をかけてくる。「からだから漂う空気が、今日は何か妙にざわついてる感じ。久々に顔が怖いよ」 「そう? 怖いって私、どんな顔している?」 「そうだなぁ」波恵は少し身を離して、時枝の顔を眺めた。「怖がってるっていうほうが当たっているのかな。──そう、幽霊に出喰わしでもしたみたいな顔してる」 「幽霊……」呟いてから、うん、と小さく時枝は頷いた。「悪くない。あんた、やっぱりいい勘している。風に煽られたぼろっきれみたいに舞い込んできた時は一体どうなることかと思ったけど、すぐに、ああ、この娘《こ》ならいかようにでも泳いでいけると私は思った。その私の目に狂いはなかったね。波恵、あんた、何だかんだ、結構金貯めたでしょ?」 「嫌ぁねぇ、人の財布覗き込むみたいなこと言って。それにぼろっきれだなんて人聞きが悪いよ」 「仕方ないじゃない、本当のことなんだから」  はは、確かにと、波恵は天井を仰いでひと笑いした。それから、改めて時枝の顔を覗き込んで言う。「だけど本当にママ、何かあったんじゃないの?」  その顔は真顔だった。しかし時枝は首を横に振った。それから、いくぶんとぼけたような笑みを浮かべて波恵を見る。「何も」 「本当? ならいいけど。ママって案外水臭いからな」 「私のことはいいから。あんた、他の客の相手をしなさいよ」  はいはいと、波恵はわざとらしく肩を竦めた。  目の前から波恵の姿が消えると、時枝は小さく息をつき、またビールをきゅっと呷って咽喉を潤した。幽霊とはよく言ったものだ。まさしく一度は死んだはずの人間が、地獄の底から這いずりだしてきたのだから、あれはやはり幽霊か化け物だ。時枝とて、よもやあの女が再び自分の前に姿を現してこようとは、さすがに思ってもみなかった。いや、悪い予感は、もう何十年も前からずっとあるにはあったのだ。ただ、この十年あまり、時枝はすっかりそのことを失念していた。少し神経が緩んでいたのかもしれない。それでいい気に娘と孫との人並みの日常など頭に思い描いて、二人がくるのを内心楽しみにしていたというのだから笑わせる。無意識のうちに、またも煙草を銜えて火を点けていたらしく、唇から溜息のように白い煙を吐き出している自分に気がついた。このところ、不整脈がでやすくなっている。だから煙草は意識的に控えようと心がけ始めた矢先だった。家に子供もくることだし、本数を減らすかやめるかするにはちょうどよい折かもしれないと考えたりもして……。時枝は、自嘲気味にちょっと顔を歪めた。これではまったくの逆、何が本数を少なくするだ、何が子供のためだ、おめでたいもいいところではないか。  狭い店がたて込み始めていた。ドアが開き、背広姿の男がまた二人、店の中へとはいってきた。「ハモニカ」の常連客。何の取り柄もない店だが、ちょっと気のきいた酒の肴と湿りけがなくほどよい波恵の気配りが、思いのほかこの店を流行らせている。ツボを心得た人間というのは、何をやらせてもそう大きくははずさない。波恵はあれで、なかなかたいした娘だ。時枝はすっと席を立った。この店にあっては、たった一席とはいえ長々占領しているのは、商売の邪魔というものだった。 「あれ、ママ、もう帰っちゃうの?」 「うん。またくるよ」 「今晩また寄ってよ。たまには帰りに一緒にごはん食べにいこ。久々、『牡丹苑』なんかどう?」 「やだよ」時枝は言った。「あんたと『牡丹苑』へいくと、いつも豚足とかレバ刺しとか、そんなものばっかり頼むんだもの。夜中に女が二人豚足にかぶりついて……色気がないったらありゃしない。はたの人がいつも白い目をして見ているよ」 「だって、あそこはあれが美味《うま》いんだから仕方がない」 「ま、また今度ね」 「やだな。今度とお化けは何とやらって言うから」 「お化けはもういいよ、たくさんだ」  波恵は、時枝を送って店の外のビルのフロアまで出てきた。 「あんた、いくつになった?」薄暗いビルのフロアの照明の下、時枝は波恵の顔をじっと見て言った。 「何よ、急に?──恥ずかしながら、三十九にもなりましたけど。ふふ、来年も再《さ》来年も三十九のままにしとこ。ここだけの話ね」  笑うと下瞼がぷくっとふくれて、波恵はくすぐったそうな顔になる。育ちの良さを感じさせる笑顔だし、匂い袋が香るような類の色気も一緒に漂う。人の魅力というのは不思議だった。波恵には本人の意図や努力とはまた別に、何か好もしいものが身に備わっている感じがする。 「三十九か……」  呟くように時枝は言った。香苗よりも六つ年上だ。それでも時枝の娘というにふさわしい年頃であることにちがいはない。 「何よ、ママ。ママはいくつになったのよ?」 「三十九だよ。今年も来年も再来年も」  波恵は、あははと、フロアに響き渡るような声を立てて笑った。それに合わせて、大きなウェーヴをつけた長い豊かな髪が揺れる。 「近いうちまた寄って。絶対だよ。その時は本当に一緒にごはん食べにいこ」  うんうんと頷いてから後ろ向きになって手を振り、波恵と別れて階段を降りた。夜の闇が重たげになりつつある歌舞伎町をぶらぶら歩く。もしもあの娘が実の娘だったらと、ぼんやり考えている自分に気がつく。波恵とだったら案外さばさばとしたいい母娘として、気楽に楽しくやっていけたのではないか。時枝は小さく首を振った。あり得ないこと、絶対に起こり得ないことを、考えてみたところで意味がない。  時枝は、夜の街で行き惑っている自分に気がついた。喫茶店は赤井と里美、既に二人に任せ始めている。なのに自分がちょこちょこ顔を出したら、かえって二人がやりづらかろう。ここ何ヵ月かは、本当に久し振りに自分の家で夜の時間を過ごすことが増えていた。最初のうちは家にいても手持ち無沙汰というか、妙にお尻が落ち着かず、思いがけず長い夜に戸惑ったりもしていた。それにもこの頃ようやく慣れてきていたのだが。  自分の家だ、用事がないなら帰ったらいい。だが、彼女らがいる。紛れもないわが子、わが孫。しかしながら相性が悪い。因縁が悪い。最悪だ。香苗とは、十年ぶりに再会した。孫の真穂とは初めて会った。にもかかわらず、二人と何十分か一緒にいただけで、自分でも心が冷えていくのがわかった。このままでは、私は昔ながらの鬼になる、と思った。誰も好き好んで鬼になる人間はいない。しかし──。  時枝は、大久保には向かわずに、煌々とネオンのともる街の中へとはいっていった。あてどなく、夜の街をさすらい歩く。遠い昔、今夜のようにあてもなく、この街をさまよったことがあったような、そんな記憶が甦っていた。      5  一文無しに等しい状態で舞い戻ってきたのだ、母子二人分の喰い扶持《ぶち》だけは、何とか自分で稼がなくてはならない。離婚を決めた時、香苗はこの先のことを学生時代に仲がよかった安藤浩子に電話で相談した。今は結婚して、中上浩子になっている。彼女は、とにかく経済的な基盤を作ることを第一に考えるべきだと言い、香苗がまだO町にいるうちに、あちこちの知り合いに職がないかと声をかけてくれていた。しかし景気は冷え込んでいる。子供を抱えた三十過ぎの女、それもろくな社会経験もなく、おまけに十年ものブランクまである女がまともな職につくというのは、なかなか容易なことではなかった。 「仕事、あるにはあったのよ」東京に帰ってきて最初に会った時、浩子は香苗に言った。「だけど、あんまりいい仕事じゃないのよね」  聞けば渋谷のマンションにある事務所の電話番兼一般事務だという。実質は、どうやら雑用係のようなものらしい。 「何をやっている会社なの?」 「会社といえる会社じゃないのよ。そこがまた問題で。何せ社長が一人でやっているような事務所だから」  一応業種は広告代理業ということになるらしいが、本当のところ何をしているかははっきりしない。今は社長の城下《しろした》という男が、携帯電話片手に一人であちこちを走りまわっているような状況だという。だから従業員は、香苗を含めても社長と二人、零細企業の最たるものだ。 「お給料もパートに毛が生えた程度のものだしね。だからあんまりお勧めじゃないんだけど……」  どうしてそんな会社を知っているのかまでは、香苗も浩子に尋ねなかった。久し振りに会った浩子の変わりようのほうに度肝を抜かれてしまって、何とはなしに聞きそびれてしまったのだ。学生時代はお嬢さん、結婚してからは中の上のクラスの若奥さん、浩子はそういう路線を歩いてきたし、それは今も変わりがないはずだった。だが、十年ぶりに会った浩子は見た目がずいぶん派手になり、そのぶん品がなくなっていた。煙草を喫うのがいけないとは言わないが、メンソールの煙草に女持ちのダンヒルのライターで火を点ける様は、家庭の奥さんというより玄人女のようだった。ベルサーチのブラウスにしてもこれ見よがしだ。だが、たぶん浩子は東京の時流に乗って流れているだけだった。向こうは逆に、きっと香苗に驚き呆れているにちがいない。時流に完全に置いてけぼりにされ、すっかり田舎臭くなってしまったかつての友。  香苗は結局、その「オンタイム」という事務所に勤めることにした。わが身を鑑《かんが》みれば、そう贅沢は言っていられない。それに会ってみると社長の城下というのは四十一、二とまだ若く、気さくで話のしやすい人物だった。事務所は渋谷で、通うに遠くないのもよい。勤務時間は原則的に十時から五時、朝の時間がゆっくり持てるのも、子を持つ身としてはありがたい。しかも城下は外に出ていることがほとんどで、1DKのマンションにはたいがい香苗ただ一人、気楽といえばこれほど気楽なこともなかった。  真穂も、戸山にある区立の小学校に通い始めた。春まで待って東京へ戻ってきたのは、学年の変わり目のほうが、やはり真穂もクラスに馴染みやすいだろうと考えてのことだった。名札の中の文字は、「にしのうまほ」ではなく「やまがみまほ」、香苗も真穂も新しい苗字になった。いや、香苗は、生まれながらの古い苗字に戻った。  香苗と真穂、それぞれの東京での新しい生活が動き始めた。香苗は仕事に真穂は学校に、しばらくは互いにそれに馴染むのに懸命だった。O町にいた頃はほとんど止まっているかと思われた時が、いきなり目まぐるしくまわりだした感じだった。実際東京での時間は、うっかりすると乗り遅れそうになるほど迅速に過ぎてゆく。東京で育ったのだからそんなことぐらい重々承知しているはずだったが、十年茨城ののんべんだらりとした平坦な田畑の中に身を置いてだだっ広い太平洋を眺めて暮らすうち、いつの間にやら田舎の時間に、自分の時計を合わせてしまっていたらしい。  その朝香苗は会社へ行こうと部屋のドアを開けて一歩外に出るなり、曇った空と空気の匂いに梅雨の気配を感じた。肌に、湿りけを帯びた空気が纏《まつ》わりついてくる。慌ただしく過ごすうち、いつの間にやらゴールデンウィークも過ぎ、五月も終わり、うららかに晴れ渡っていた空にも翳りが見えるようになってきていた。時が流れるのなどあっという間だ。なまくらになってしまった頭を抱えてぼやぼやしていると、時にどっと押し流されてしまいそうだった。  バッグの中の折り畳み傘を確かめながらエレベータに乗り込む。扉が閉まる寸前に、四〇四号室、隣の部屋の住人の、志水悦子が身を滑り込ませるようにして箱の中に乗り込んできた。おはようございますと、互いに小さな声で挨拶を交わす。悦子の顔には化粧っ気がなく、血の気を感じさせる色もまたなかった。青白く沈んだ肌は不健康にくすみ、半ば病人のようでさえある。この街に多い夜の稼業の女──。人を職業で判断してはいけないことぐらいわかっている。しかし香苗はそのことだけで、彼女があまり好きになれなかった。朝の九時を十五分かそこらまわったところ。仕事柄、彼女にとってはまだ早朝の部類だろう。まだ眠りの中に在ってしかるべき悦子が同じエレベータの中にいるということ自体が、不思議に思えた。箱の中に香水の匂いが満ちていく。化粧もしていないというのに香水をつける彼女の感覚も、香苗には理解できなかったし、したくもなかった。 「あの、余計なことだとは思うんだけど」思いつめたような顔で、不意に悦子が口を開いた。歯を磨いたばかりなのか、メンソールの香が漂う。「真穂ちゃん、大丈夫かな、と思ったりして……」 「え? 真穂?」  香苗は怪訝《けげん》そうに眉を寄せ、色のない悦子の顔をじっと見た。 「昼間時々ね、山上さんが大声を上げたり物を投げたり……時には何かを叩くみたいな音がしたりするから」そう言ってから、悦子は慌ててひろげた手をひらひら振った。「あ、いえ、もちろん家の中で何が起きているかなんて私にはわからない。山上さんが小さな子供に何かするような人じゃないってこともよく知ってるつもり。だから余計なことだと思ったし、こんなことあなたに言っていいものかどうかも迷ったの。だけど私、たったいっぺんだけだけど見たのよね」 「見たって、何をですか?」 「ちょうど買い物に表に出るところだったの。そうしたら、山上さんのものすごい怒鳴り声だか叫び声だかがした後に、玄関から真穂ちゃんがゴムまりみたいに転がり出てきて。私には、蹴り出されたみたいに見えた。でも、絶対とは言えない。真穂ちゃん、青い顔はしていたけど、別に泣いたりはしていなかったし」  香苗の顔から、一瞬血の気が退いた。「山上さん」というのはむろん時枝のことだ。悦子にとっては時枝がお隣の「山上さん」であって、香苗や真穂の「おかあさん」や「おばあちゃん」ではない。  半分茫然として言葉を失っているうち、エレベータが一階へと着いた。二人していったん地上に降りる。 「ごめんね、朝から変なこと聞かせて。だけど、あなたとは時間帯が合わないせいもあってなかなか話をする機会もないし。……もしかしたら、私の早とちりもいいとこかも。だとしたら勘弁してね。それでも事は子供の問題だから、一応は耳に入れておいたほうがいいかと思って。ああ、会社、遅れちゃうね。本当にごめんなさいね」  それだけ言うと、悦子は再びエレベータに乗り込んだ。扉が閉まる前、香苗に向かってちょっと頬笑んでみせた悦子の顔が、しばらく脳裏に焼きついていた。言いづらいことを口にした後のバツの悪そうな表情、わずかに揺らぐ昏い眼、つれたみたいにいくぶん歪んだ口許の笑み……。悦子はそのことを告げるため、わざわざ香苗の出勤時間に合わせて起き出して、出かけてゆく香苗を捕まえようと飛び出してきたのだろう。恐らくもういく日も前から、時間やタイミングを計っていたのだと思う。  家に引き返しているだけの時間はなかった。たとえ引き返したとしても、それで今どうしろというのか。真穂は学校へ行った。時枝はまだ寝ている。いきなりそんな話をするとっかかりもない。茫然たる思いのまま、香苗は新大久保の駅に向かって歩きだした。時枝の怒鳴り声がした直後に、真穂が玄関からゴムまりのように転がり出てきた──、それはとりもなおさず時枝がサッカーボールさながらに、真穂を家の外に蹴り出したということではないか。  馬鹿げた話だった。まだ小学校に上がったばかりの小さな子供、それもひよわな女の子を、蹴り出すような祖母がどこの世界にいるものか。あの西納の義母ですら、そこまではしなかった。時枝と真穂、香苗の目から見ても、確かに二人がうまくいっているとは思わない。相変わらず時枝は外に出ていることが多く、真穂のことには無関心だ。真穂もあえて自分から「おばあちゃん、おばあちゃん」と時枝に寄っていこうとはしていない。とはいえ二人の間にそれだけのことが起きているとすれば、いくら何でも香苗にだってわかるだろう。仮に暴力をふるわれていれば、真穂ももっと時枝に対して脅えの色を見せるだろうし、母親の香苗にはきっとそのことを話す。真穂とはたいがい毎晩一緒に風呂にはいっているが、どこにも傷や痣といった類のものは見当たらなかった。悦子本人が言っていたように、それは彼女の早とちり、とんでもない勘違い──。  一方で、悦子の話を、完全には否定しきれず、笑い飛ばせずにもいる自分がいた。打ち消そうとしても、頭の中で勝手に「幼児虐待」の四文字が躍っている。神経が浮足立ったようなからだで駅への道を歩きながら、香苗は頭の中で、「幼児虐待」ではなく「児童虐待」かと、律儀に言葉を訂正したりしてもいた。どちらにしても、神経が現実からはぐれかけていた。歯車の狂いかけた頭で地に足がつかぬまま、さまよい歩いているような心地だった。  自分が幼かった頃のことに思いを馳せてみる。時枝が子供に対して愛情のない母親だったことは間違いない。まるでいやなものでも見るような冷めた目をして、しばしば香苗をちらりと横目で見たものだ。香苗の心を一瞬にして石のように強張らせるその一瞥を、今も香苗ははっきりと覚えている。あれは本当にいやな顔だった。少なくとも、母親が子供に対して見せる顔ではなかったと思う。けれども、時枝から暴力をふるわれた記憶はまったくなかった。本当に幼い頃、悪戯を注意するという意味でお尻ぐらいは叩かれたことがあったかもしれないが、物心ついてからは手を上げられたという記憶もない。だから時枝が真穂に対して手を上げたり、ましてや蹴ったり何だりするなど、考えられないことだった。理屈ではそうなのだが、納得できずにいる心が残る。時枝ならばやる、あの人はそれができる人間だ──。香苗は、時枝という人間を信じていない自分に気がついた。時枝という人間をというよりも、母をと言うべきかもしれない。赤の他人ではない。紛れもない実母だ。その母を信じきれないということが、香苗の心を打ちのめした。  いつとも知らず乗り込んでいた電車が渋谷に着き、人波に押し流されるように香苗もホームに降り立った。血の気が退いて青ざめた顔に、ひとりでに涙が筋を引いて落ちていく。泣くつもりなどなかった。それだけに涙の温《ぬく》みに少し驚き、手の甲で慌ててそれを拭い取った。かわいそうな真穂……香苗は心の中で呟く。どんな人からも愛されるだけのものを神から与えられてこの世に生まれてきたというのに、何故か真穂は肉親の愛に恵まれない。ことに祖母には恵まれない。香苗の脳裏に、ふと西納の義母の顔が浮かんだ。途端に胸に焼けるような憤りがこみ上げてきて、瞬間香苗はちずに対して、殺意に近い憎悪を覚えた。あの人さえいなかったら、と思う。あのまま西納の家で暮らし続けていたら、いつか香苗はちずを殺していたかもしれない。だが、もしも時枝が実際に真穂を虐待しているとしたら……そう考えてみても、焼けるような憎しみは湧いてこなかった。憤りや憎悪よりも、身からすべての力を奪い去ってしまうような絶望が、香苗の中に隈なくすみやかにひろがっていく。どうしておかあさんはそうなの? 私ばかりか孫のことまで愛せないの?──  肩を落とした色のない顔で、香苗は駅の階段を人に背を押されながら降りていった。      6  おかあさんがいない時おばあちゃんと? 別に何もしていないよ。おばあちゃんは畳の部屋にいるし、真穂は自分の部屋にいるし……。おばあちゃんから叱られること? そんなことないよ。だって真穂、叱られるような悪いこと、なんにもしていないもの。おかあさん、おかしいね。どうしてそんなこと訊くの? 学校にも慣れたし、毎日けっこう楽しいよ。茨城にいる時より今のほうがいい。おばあちゃんとは、そりゃあ今のところあんまりお話ししたりはしていないけど、真穂、ここのおばあちゃんのこと嫌いじゃないし。茨城のおばあちゃまよりも好きだな。どうしてって、おばあちゃん、うるさくないもの。茨城のおばあちゃまは、真穂が何をしても気に入らなくて、いつも目をつり上げて怒ったじゃない? おかあさんにも、意地悪ばっかり。真穂、ちゃんと知ってるんだから。ここのおばあちゃんは、やさしくはないかもしれないけど、文句をつけたり意地悪したりしないもの。だから真穂はこっちのほうが楽しい。──え、やだな、全然怖くないよ。どうしておばあちゃんのことが怖いの? おかあさん、間違えてるよ。ここのおばあちゃん、怖い人なんかじゃない。真穂がおばあちゃんとあんまりお話ししないのは、まだ一緒に暮らし始めたばっかりで、何をお話ししたらいいかわからないからだよ。おかあさん、真穂とおばあちゃんが喧嘩していると思ったの? そんなことなんかないから大丈夫。嘘じゃないって。おばあちゃんはね……本当は気持ちに弱いところのある人なんだよ。どういうところがって……それはうまく言えないけど。おばあちゃんはおかあさんのおかあさんでしょ? じゃあおかあさんのほうがおばあちゃんのこと、よく知っているはずじゃない? そんなことよりね、真穂、学校で仲よしの友だちができたんだ。杉田由衣ちゃんていって、今すぐにでもテレビに出られそうなすっごい美少女。え? 真穂なんかより全然かわいいよ。おかあさんも会ったらきっとびっくりするから。由衣ちゃんね、戸山のマンションに住んでるんだ。ピンクの自転車に乗っててさ、かっこいいんだ。真穂、由衣ちゃんみたいな自転車ほしいな。すぐに買ってくれなくてもいい。だから今度、一緒に見に行こう。え? 違う、由衣ちゃんのうちにじゃないよ。自転車屋さんかデパートに。だから見るだけだって。由衣ちゃんは『ウィリアム・テル』で買ったって言ってたけど。え? おかあさん、『ウィリアム・テル』知らないの? 有名なディスカウントストアだよ。自転車だって携帯電話だってパソコンだって、何でも安く売ってるんだから。おかあさん、東京で生まれたのに、なんにも知らないんだね……。      *  真穂ちゃんになるべくやさしくしてやってくれって、それ、どういうこと? いや、あんたの話はわかったわよ。茨城で西納のお義母さんにあんまり厳しく躾られすぎて、真穂ちゃんが少しおかしくなりかけたっていうんでしょ。心身症みたいになって、それであんたも辛抱たまらず向こうの家を出てきたって、そういう話でしょ。そりゃあ話を聞けば、真穂ちゃんもかわいそうだったなとは思うわよ。だけど、私にどうしろっていうの? これまであの子がいじめられてきたぶん、ここでは私がちやほやかわいがってやれっていうの? 悪いけど私、そんなことできないわ。子供は得意じゃないのよ。子供に合わせた扱い方っていうのができないの。それじゃ困ると言われたって、私のほうだって困っちゃう。──だいたいね、あんた、少し神経質すぎやしない? 肝心なことには案外ずぼらで間が抜けているくせに、こと子供のこととなると、目つき、顔つきが変わるんだから。親が神経質すぎるとね、子供も神経質になるものよ。子供なんて、ちょっと放ったらかしておくぐらいがいいんだよ。第一あの子、そんなやわな子供じゃないよ。あの子はね……何て言うか、私なんかよりもよっぽど強いものを持ってるよ。その強い子が西納の家で、精神的に歪みが生じるぐらいに追いつめられたっていうこと自体が、私には何だか不思議なぐらい。放っておいたって、あの子はちゃんと生きていくわよ。どうしてって……これでも私は人間大勢見てきているからね、何となくそういうことがわかるんだよ。だけどあんた、どうして急にそんなこと言いだしたの? 真穂ちゃんが何か言ったの? 違う? だったらどうして? そりゃあ私は普通のおばあちゃんらしくはないかもしれない。だけどそういう人間なんだから仕方がない。今さら変えろって言われても、どうすることもできないよ。だからって私、別にあの子のこと、邪険に扱ったりはしていないつもりだよ。──それにしても香苗、あんた、本当に変わらないねぇ。こうしてほしい、ああしてほしい……いつもいつも自分のことばっかり。それで思うようにならないと、どうして、どうしてって、自分の中に不満を溜め込んで相手を呪う。あんたは相手の立場に立ってものを考えるってことができない人間なんだ。昔っからそうだった。今度は自分のことじゃなく、真穂ちゃんの立場に立ってものを言ってるつもりかもしれないけど、あんたにとっちゃ真穂ちゃんは自分の一部。結局は自分のことを考えてものを言っているんだよ。子供は何よりも大事なものだから、周りはみんな子供に合わせていくのが当然だと思っているのかもしれないけど、そんなのはあんたの勝手な考えで、どこででも通用すると思ったら大間違いだよ。子供なんて、自分勝手でわがままで、無垢かと思えば大人のいやなところを凝縮したみたいに持っていて、気味の悪い生き物だって思っている人だってこの世の中にはいるんだから。──そういえばあの子、左利きなんだねぇ……。何よ、急にそんなおっかない顔して。別に悪いと言ってる訳じゃない。ただちょっと驚いただけ。どうしてって……左利きの人間なんて、うちにはいなかったから。え? 西納のお義母さんと同じことを言う? そう、西納のお義母さんはそれも気に入らなかったんだ……。あんたの父親? そんなこと、忘れたよ。いや、左利きではなかった。そう、左利きじゃない。おじいちゃんやおばあちゃん? そこまで追及して何になるの? しつこいな、左利きなんかじゃなかったよ。いずれにしたってそんなのたいした問題じゃない。どうだっていいことじゃないか。もう話はお終い。これ以上話していたら、お互い気分がくさくさしてくるばっかりだ。あんたたちは遠慮せず、この家で自分たちの好きなように暮らしたらいい。私も同じように、この家で自分の好きなように暮らしていく。それでいいじゃない? 最初は多少ぎすぎすしたりもするかもしれないけど、いずれおさまるようにおさまるよ。人間、環境に適応するようにできているんだから……。      *  この間は朝から変なこと言ってごめんなさいね。だけど私、どうしても気になったものだから。──で、どうだった? え? 山上さんも真穂ちゃんも、何のことかわからない様子だった? つまり、そういう気配はなかったということね。そうか……じゃあ、やっぱり私の早とちりか。でもねぇ、あなたたちがここへ越してくるまでは、山上さんのあんな声、聞いたことなかったんだけどな。真穂ちゃんも、とくに怪我をしている様子はなかった訳ね。だったらやっぱり何でもなかったんだ。それじゃあれは何だったんだろう? ほら、真穂ちゃんが玄関から転げ出てきたっていうあれ。それを見間違うほど、私もどうかしているとは思わないんだけど。──うん、ここのところも時々あるわよ。壁を突き抜けて響いてくるような山上さんのヒステリックな叫び声。あれだけ聞いたら、部屋の中で何か起きているとしか思えないんだけどな。でも、何かあれば真穂ちゃんも、あなたにだけは言うはずだものね。それがないということは、やっぱり何もないということか……。ああ、だったら私、山上さんにもあなたにも、本当に失礼なこと言っちゃった。余計な心配もさせちゃったわね。ごめんなさい。私、本当に謝るわ。山上さんにはこのこと黙っておいて。聞けば誰だって面白くないもの。私だったらかんかんに怒っちゃう。それを、実の娘さんのあなたに頼むっていうのもねぇ……。でも、こうして面と向かっていても、何だか山上さんの娘さんと話しているって気がしないのよね。あなた、山上さんには似ていないもの。きっとおとうさん似なのね。──あ、また余計なこと言ったかな。それにしても、本当に何事もなくてよかったわ。勝手な言い種かもしれないけど、私もそんなはずはないな、とは思っていたの。だって真穂ちゃん、山上さんの実のお孫さんだものね。それに彼女、すごくかわいいし。おばあちゃんが、そんなかわいい孫を虐待する道理がないものね。そうそう、それにこの間私、実は違う人の声を聞いたの。あなたにあんな話をした以上、私もおたくの物音には気をつけるようにしていたのよ。そうしたら、山上さんがヒステリックに叫んだり物音立てたりする時って、誰かもう一人、部屋にいるような感じでもあるのよね。おばあさん……まあ、山上さんと同じぐらいの年頃の人だと思うから、おばあさんなんて言ったら怒られるかもしれないけど。姿を見た訳じゃなくて、話し声だけ。六十過ぎの女の人の声みたいだったな。……壁越しだもの、何を言っているかまではわからなかったわ。それにその人、訛りがあるのよ。ずーずー弁というほどでもないんだけど、口の中で籠もるような感じでね、やっぱり北の方の訛りじゃないかしら。だからなおのこと聞きづらいの。もしかしたら山上さん、その人と揉めているのかも。香苗さん、その人に心当たりない?……そうか、そうよね。あなた、ずっと離れて暮らしていたから、わかるはずはないわね。ひょっとすると真穂ちゃんは、山上さんとその人とがすごい勢いで揉め出したのに驚いて、外に転げ出てきたのかも。それにしても、何か妙なのよね。いや、私も気をつけているつもりなのに、そのおばあさんの姿を一度も見ていないし、おたくに出入りする気配も感じたことがないっていうことが。ここのマンション、隣の物音は案外よく聞こえるから、ちょっと気をつけていさえしたら、誰か来たり出ていったりするのは必ずわかるはずなんだけど。案外その人幽霊だったりして。──ああ、心配しないで。もうおたくの物音に聞き耳立てたりしないから。今度のことだけど、本当に気を悪くしないでね。悪気はこれっぽっちもなかったのよ。だから……。      7  時枝との間にはこれといって何事もない、真穂は香苗にそう話したし、改めて真穂のからだを隈《くま》なく眺めてみたところで、外傷とおぼしきものは見当たらなかった。時枝は子供は苦手、自分は孫を猫かわいがりする世のおばあちゃんのようにはなれないと言いはしたが、もともと時枝というのはそういう人だ。むしろそれを忌憚なく口にできるのは、うしろめたいところは何もないということの証ではないか。時枝と真穂、二人の話に矛盾はない。香苗は安心してもよいはずだった。なのに心に澱みが残る。  西納の家で育てたせいだろう、真穂は必要以上に周囲の人に気を遣うところがある。それを西納の義母は「子供のくせに大人の顔色を見る」と、忌むべきことの如く言ったものだが。真穂は今、自分たち母子にはここしか居場所がないことを承知している。自分がここにいたくないと口にすれば、香苗を困らせることになると心得てもいる。そういう時、真穂は口を閉ざして本心を告げない。嘘をついてでも隠そうとする。西納の家でもそうだった。真穂は泣き言めいたことは何ひとつ言わなかった。折檻《せつかん》に近い目に遭わされながらも、ちずを嫌いだと言ったことすらなかった。そして我慢が限界に達すると、真穂は自分が構築した虚構の世界に逃げ込んでしまう。それがちずの言う「作り話」だ。真穂が口にすることは、大人の判断を惑わせるぐらいにまことしやかでもある。真穂は生まれてからこの七年のうちに、自分の心を上手に包み隠してしまうことばかりを覚えてしまった。だから香苗は親でありながら、時として真穂の言っていることが本当なのか嘘なのか、その判断がつかなくなる。今回に限って言えば、話を途中で杉田由衣という子や自転車の方に振り向けたということがひっかかる。肝心なことに触れられそうになると、真穂は話を逸らせる傾向がある。はっきりとはしないが、香苗には真穂が何かを隠しているような手応えがあった。手応えだけで中身がさっぱり見えてこないことが、余計にもどかしい。  時枝の言ったことでも、気になることがまったくなかった訳ではなかった。時枝は真穂のことを、自分などよりよほど強い人間だと言った。あれは放っておいても生きていける子だと。長年の商売柄、時枝には人を見る目があると香苗も思う。その時枝が真穂を強いと言ったのは、いったい何を指してのことなのか。手を震わせ頬をひきつらせていた真穂、必死の形相、青白い顔……思い出すと香苗には、真穂がとうてい強い子だとは思えない。しかも真穂は真穂で時枝のことを、弱いところのある人だと言った。万が一、時枝が真穂に虐待に等しい行為をしているとすれば、当然両者の関係は時枝が強者で真穂が弱者だ。なのに二人の話の中では、強者と弱者の立場が逆転している。逆転しているという点で、二人の話の辻褄は合っている。それでいて、現実とは何か大きな喰い違いがあるような気がしてならなかった。そう思うのは、香苗自身が家の中に漂う空気に、何か緊迫感に通じる気配を覚える時があるせいかもしれなかった。仕事を終えて家に帰っても、日によって神経がすんなりほぐれていかないことがある。いわば家の空気がぴんと張っている感じ、あれはいったい何なのか……。  そんなことを頭の中で思い巡らせながら、香苗は渋谷の駅から山手線へと乗り込んだ。五時を過ぎ、そろそろ家路をたどり始めた人々で、帰宅のラッシュが始まりつつあった。人と人とが肌触れ合わせる混雑に揉まれながら、香苗は小さく頭を振った。時枝も真穂も、揃って何もないと言っているのだ、どうしてそれを素直に信じられないのか。あれは隣家の女の勘違い。詮索好きの女が自分勝手に想像した、ありもしない空想話。それをあれこれ考えてみたところで始まらない。今はただ、まじめに勤めて金を貯め、いざという時真穂と二人で暮らしていけるだけの経済的基盤を作ることのほうが肝心だ。とはいっても、先にさほど希望は持てなかった。今の事務所は週休二日で、一日の拘束時間も短く仕事も楽だ。だから給料は一ヵ月十三万円。それではとても親子二人、独立して生活していくことなどできはしない。  新大久保に着き、電車を降りた。自分でも気づかぬまま、肩をすぼめ気味にして家路をたどる。大久保通りを歩いていて、途中ショーウィンドーに映った自分の姿を目にして溜息をつく。十年も茨城の田舎町で下女さながらの生活を送ってきたから、香苗はすっかり所帯やつれしてしまっている。東京に戻ってきて浩子に会った時にも感じたことだが、ファッションにしろ化粧にしろこの十年でまるきり変わってしまっていて、香苗は流行どころか世間一般の波にさえ乗り遅れている。一応は勤めに出ているのだ、新しい服だって何着かはほしい。けれども今はその余裕もなく、十年前と体型が変わっていないのを幸いに、昔の服を着て出かけている。しかし肩パットも膝丈ちょうどのタイトスカートも、今では野暮としか映らない。パーマをかけたセミロングの髪にしても、東京にあっては田舎臭くて垢抜けないばかりだ。なのに十年分、歳だけはしっかりとってしまった。今年香苗は三十三歳、十五、六の娘たちが主流となった世の中では、たとえこちらが肚《はら》を括って夜の勤めに出ようと決心したところで、先方がそれを許さない。  そこまで考えて、思わず香苗はぞっと身を震わせた。子供を抱えて生活していこうとするため、心の隅では夜の勤めに出ることまで算段している──、それは長年香苗が厭悪していた暮らし、はっきり言ってしまえば過去に時枝が選択した、安易このうえない路線だった。母と同じ道筋をたどって子連れでこの街へと舞い戻り、行き惑うような心地で同じことを考えている自分が堪らなかった。  ぼやっと歩く香苗と危うく肩をぶつけそうになりながらすれ違い、通り過ぎかけた男がふと足を止めた。男の強い視線を感じて、香苗も反射的に相手の顔に目をやる。どこかで見たような顔だった。歳は三十五、六というところか。物のいいスーツに身を包んではいるが、目には獣の光があるし、皮膚の毛穴からもふんぷんと雄の匂いを漂わせている。堅気の人間の放つ気配ではない。男の顔から目が離せぬままに、香苗はいくぶん身を固くした。 「もしかして山上? だよな? 山上だろ?」  男の言葉に、香苗の中でも記憶の糸が繋がりかける。しかし、もう少しというところでその糸はうやむやになってしまって繋がらない。もどかしさが募る。 「俺、俺。春山だよ。小、中ずっと一緒だったじゃねえかよ。山上……山上香苗だ。よく覚えてるだろ、俺」  自然とぱっと目が開き、同時に視界も広がって、光が射した心地がした。春山秀浩、この街に帰ってきた時どうしているだろうと真っ先に考えた、「ゲームセンターJ」の息子だった。春山の父親は大久保に腰を据え、いわゆる遊興娯楽事業を営んでいたから、彼は他の多くの友だちとは異なり、この街から消えてしまうことがなかった。だから小、中ずっと一緒、互いのことはよく知っていた。 「春山君……驚いた。すっかり変わっちゃって。ううん、変わっていない。こうして見てみると、やっぱりあの春山君だわ」 「驚いたのはこっちだぜ。大久保に帰ってきてたのかよ? それとも里帰り……っていう恰好でもないか」 「離婚したのよ。しかも子連れで。それでこの春、すごすご舞い戻ってきたの。情けない話でしょ?」 「よくある話だよ。自慢じゃないけど俺だってバツイチだぜ」 「で、今は? 再婚したの?」 「冗談じゃねえ。もう結婚なんて当分結構。その時その時かわいいおねえちゃんと気楽につき合っているのが一番だよ。──ま、前の結婚で、ガキも一人手元に残ったしな。不足はないよ、万万歳だ」  春山の言い種に、香苗は思わず笑みを顔に滲ませた。子供の頃から、線の太い逞しい男だった。からだはたいして大きくないのだが、雑草みたいな強さがあって、何があってもへこたれるということがない。春山を見ていると、香苗もいつも元気になったものだった。 「で、山上は? 今何してるんだよ? かあちゃんの店でも継ぐのか?」  香苗はやや渋い面持ちを作って首を横に振った。「私、ああいうお商売は苦手だから。今は知り合いの紹介で、渋谷の小さな事務所に勤めてる。ま、事務兼雑用係ね」 「何だよ、苦手だなんて言ってないで、おとなしくかあちゃんの店やらせてもらったらいいじゃないか。そのほうがお前、やりようによっちゃ事務員なんかの二倍三倍の金になるだろうに」 「それはそうなんだけど……」 「山上、かあちゃんと違って昔からお上品ぶってたからな」  かあちゃんと違って……その言葉に、ついつい敏感に反応してしまう自分がいる。大久保で夜の商売をしている人間の間では、良くも悪くも。かつて時枝は知られた存在だった。  春山はと言えば、父親の後を継ぎ、相変わらずこの街で遊興娯楽の事業に携わっているという。ゲームセンター、ゲーム喫茶、パチスロ店、それに一昨年、ラブホテルも一軒買い取ったとか。どうやら彼は、今や押しも押されもせぬ実業家ということらしかった。 「そういえばかあちゃん、どうしてる? このところちょっとなりを潜めているみたいだけどよ」 「うん。でも、相変わらず忙しくしているみたいよ。家にもあんまりじっとしていないし」 「そうか? 店のほうじゃ、あんまり姿見ないけどな」 「半分は、もう人に任せてるって言ってたから」 「なのに忙しそうにしているってことは、かあちゃん、また何か企んでるってことか。今度は何の商売始めるつもりだ? 何せお前のかあちゃん、昔っからやり手というか女のくせして強面《こわもて》だったからな。俺なんか高校出るぐらいまでは、おっかなくてまともに口なんか利けなかったぜ」  まさか、と香苗は笑った。けれども春山は真顔で首を前に突き出す。 「本当だって。お前に手ェ出す人間がいなかったのも、かあちゃんのお蔭だよ。あのかあちゃんが後ろについているんじゃおっかなくってよ」 「どうして怖いの?」 「半端じゃないからよ。全盛時代のことは俺もよく知らないけど、肚が坐ってて、殺《や》るか殺られるか、いつも本気で勝負賭けてくるみたいなところがあったらしいから。うちの親父だって、一目置いていたからな」  この街に流れてきてから時枝がどういう生きかたをしてきたのか、それをつぶさに知りたいという欲求が、不意に香苗の中で頭をもたげた。それでいて、同じぐらいの強さで何も知りたくないという思いが萌す。知れば幸せな気持ちにはなれないような気がした。少なくとも、今より時枝を嫌いになることはあっても、好きになるということはないだろう。 「そうそう。昔かあちゃんが飲み屋やってた頃、作田っておやじがいただろ?」  懐かしい名前だった。作田というのは、時枝がスナックだのデートクラブだのをやっていた時のマネージャーで、腰巾着みたいにいつも時枝にくっついていた男だ。だが、香苗が大学にはいった頃から姿を見かけなくなった。それきり香苗も、作田のことは完全に忘れていた。そんな男がこの世に存在したということさえ。 「あのおやじ、今どこにいるか知らねえかな? 四、五年前には大久保に戻っていたんだけど、最近また姿が見えなくてよ」  香苗は首を振った。「知らない。私十年以上も、あの人には会っていないもの」 「だよな。ずっと田舎に引っ込んでた山上に聞いてみたところでわかりっこないな」 「作田さん……あの人がどうかしたの?」 「あのおやじ、曲者だからよ。ああ見えてしこたま金持っていて、金の匂いにもさといんだよ。裏のほうにもいろいろと顔が広くてよ、俺も今度始める商売のことで、ちょっと相談したいことがあったんだけどな」 「作田さんが?」  意外だった。作田というのは、実際の歳も時枝よりは五つか六つ上だと思うが、若白髪だったのか、昔から年齢よりもずっと老けて見えた。だから香苗にとってはずっと、おじさん、おじいさん。時枝との関係も、いつも時枝がオーナーで作田がマネージャー、その主従の関係は変わることがなく、彼は常に時枝に頭が上がらぬ子分だった。どちらかというと鈍重な感じのする温和な初老の男。香苗の中の作田像は、春山の言ったそれとはずいぶんずれがあった。  内ポケットの携帯が震えたらしい。春山は携帯を取り出して、相手を確認してからいったん電話を切った。 「とにかくよ、近いうちいっぺんうちの事務所に顔出せや。女が子供抱えてっていうんじゃ、何かと大変だろう。今なら俺だって、相談に乗れることもあると思うからよ。まあ、山上にはかあちゃんがついているから心配はないと思うけど」 「そんなこと……」 「それにしてもかあちゃん、金、いったいどうしたんだろうな?」  春山は眉根を寄せ、いくぶん左右の目を段違いにして呟いた。その表情はどこか小狡そうで、油断ならない感じがした。オールバックにした黒い髪が艶々とてかっている。 「だってよ、かあちゃん長年金になる商売を、結構手広くやってたじゃねえか。その金うまくまわしていりゃあ、億に届く額になってるはずなんだよな。なのにいまだにあのアパートに住んでるんだろ?」  アパートという表現が、妙に肌にしっくりきた。事実「大久保東レジデンス」は、かつてはマンションだったかもしれないが、今はアパートに成り下がった。 「今手もとにあるのは、あの喫茶店一軒だけだろ? 不思議なんだよな。贅沢しているようにゃとても見えないし。案外ハワイかどっかに豪邸持っていたりしてな」自分で言っておきながら、春山はすぐさま、はは、と笑い飛ばして天を仰いだ。それから香苗の顔を見て言う。「悪い。俺、まだ一軒集金にまわらなきゃならないんだ。山上、本当に近いうち寄れよ。かあちゃんにもよろしくな」  言いながらも、春山はぐんぐん香苗から遠ざかり、舗道の人込みに紛れていった。立ち話をしているうち、町は暮色に包まれて、通りを挟んだ店々には、色とりどりの明かりが灯り始めていた。香苗は、再び家に向かってゆっくりと歩きだした。歩きながら頭の中で、春山の言葉を反芻する。確かにおかしい。昔から時枝は昼も夜もろくに家にはいないほど、忙しく動きまわっていた。金のためとあらば仕事は選ばず、際どい商売にも手を染めてきた。ならば春山の言うとおり、相当の額の金を貯め込んでいても不思議はない。むろん香苗も時枝の通帳だの何だのを、この目で確《しか》と見た訳ではない。だが、少なくとも香苗が知っている限りでは、今の時枝に家一軒買えるほどの金はない。2LDKのマンションの部屋ひとつ買えるかどうかも怪しいぐらい、老後の蓄えというのがせいぜいの額だろう。時枝がなりふりかまわず稼いだ金は、いったいどこに消えてしまったのか。作田のことにしても、何か釈然としない気分だった。あれはいわば時枝の下僕のような男だとばかり思い込んでいた。しかしどうやら彼には別の顔があったらしい。  香苗は、不意に悦子の言った言葉を思い出した。山上さんと同じぐらいの年頃の女の人の声がする……。そうだった、謎はほかにもまだあった。それが事実とするならば、女はどこの誰なのか。その女がくると、どうして時枝はヒステリーを起こして喚きたてるのか。それほどいやな相手なら、何だって家に上げたりするのか。  一日この街で過ごすごとに事情に明るくなっていくどころか、次々わからないことばかりができてきて、日増しに深く迷路にはいり込んでゆくようだった。  おかあさんは東京で生まれて育ったのに、東京のことなんにも知らないんだね──、いつだったか真穂は香苗に言った。東京のことばかりでなくこの街のこと、人間のこと……自分の母親の時枝のことさえ、その実香苗はろくに知らずにいた。大久保通りを左に折れると途端に周囲の光度が落ちて、あたりに闇がひろがった。蛍光灯が切れかかっているのか、マンションの入口付近の明かりがちかちかしていた。いや、マンションではなくアパート……。香苗は頭の中で訂正した。      8 「おかあさん、これはいったいどういうことなのよ?」  いきり立つ香苗を、時枝は暗い洞《ほら》のような虚しく冷たい目をして黙って見ていた。その顔は石だ。感情というものが読み取れない。激しながらも香苗は、以前にも時枝のこんな顔を見たことがあるのを思い出していた。何があっても動じず怯むことのない母。場面によっては相手を威嚇するように憤怒の顔を作りもするが、こうしてすべての感情を封じて石化してしまうこともあった。完璧なまでの外界の拒絶。 「返事をしてよ」香苗は金切り声にも等しい声を張り上げて言った。「真穂のお尻の痣《あざ》よ。あんなものがどうしてできるの? 真穂にやさしくしてやってって頼んだはずじゃない? おかあさん、普通にしかできないって言った。普通でいいのよ。だけど、これが普通のこと?」  自分の留守中、家の中では何も起きてはいないと、信じようとした矢先の出来事だった。真穂の尻にできた見るも無残な赤い大きな痣、それを目にした時は顔から血の気が退き、現実に目の前が暗くなるのを香苗は覚えた。どうしたの、と真穂に問うと、真穂は言葉を濁らせた。家の中でできたのかと問うと、最初はそうだと頷いた。どこで、どうして、と重ねて問う。すると真穂は玄関のところで転んだと答えたが、すぐさま外の階段のところで遊んでいて転んだのだと訂正した。 「それじゃ家の中じゃないじゃないの」香苗は言った。 「間違えたんだよ。家の中じゃなくてマンションの中」 「どうしてそんなことを間違えるの?」 「たいしたことなかったから忘れちゃったんだってば」 「たいしたことないだなんて。それだけ痣になっていたら、椅子に座るのだって痛いはずよ」  今度はわかった。真穂は嘘をついている。最初に言った家の中というのが本当。痣ができたのは、転んで尻餅をついたからなどではない。痣は縦方向に大きくできている。これは突き飛ばされたか投げ飛ばされたかした弾みに、家具の角にしたたか打ちつけてできたものだ。家の中に人は二人、当然突き飛ばしたのは時枝。 「おかあさん、だんまりはよして。ちゃんと返事をしてよ」  時枝は鼻から大きく息を吐き出して、いくぶん唇をへの字に曲げて首を小さく横に振った。 「ねえ、おかあさん!」 「うるさいな」時枝はようやく、低く唸るような声で言った。「私は頭に血がのぼっている人間とは話をしたくないんだ。どうせまともな話にならないからさ」 「私は真穂のお尻の痣のことを訊いているのよ」 「知らないよ」素っ気なく、しかもソッポを向いて時枝は言った。「私は真穂ちゃんのお尻なんか見てないもの」 「見ていなくたって、何かがあったからあんな酷い痣ができたんでしょ?」 「何かがあった……。つまり私が真穂ちゃんを叩いたり蹴ったり、そういう真似をしたってことか」 「だって、それ以外に考えられないんだもの」 「真穂ちゃんがそう言った?」 「──真穂は階段で転んだと言ったけど」 「真穂ちゃんがそう言うんならそうなんだろ」  その言い種を耳にした途端、香苗の頭にかっと熱い血がのぼった。胸の中にも、むかむかと焼けた空気がひろがっていく。 「おかあさん、それで恥ずかしくないの? 子供が何も言わないのをいいことにして」 「何も言わないんじゃなくて、階段で転んだって言ったんだろ?」 「それは真穂の嘘よ」 「嘘?」 「おかあさんを庇う嘘」  時枝はちょっとぽかんとした面持ちで香苗を見た。その直後、さくりと石榴《ざくろ》が割れたように口が開き、時枝は少し腹を抱えるようにして、呵々《かか》と笑った。 「あんた、馬鹿じゃないの?」 「何がおかしいの? 私のどこが馬鹿なの?」 「あんたちっともわかってないよ」そう言った時枝の顔は、石榴からまた石へと瞬時のうちに戻っていた。「ま、いいよ。あんたにははなから期待していないから」 「期待していないって何なのよ?」 「物事わかってもらおうなんて、思ってないってこと」 「話をすり替えないでちょうだい」 「すり替えてなんかいないさ。ねえ、香苗。あんた真穂ちゃんが嘘をついたって言ったけど、真穂ちゃんっていうのは、そういう子なの? そうやってよく嘘をつくの?」  胸をぐさりと突き刺されたような思いがした。一瞬香苗は言葉を失った。 「そうなんだ。やっぱりそういう癖のある子供なんだ」 「それは西納の家で……」 「わかってる。向こうのお義母さんにいじめられて歪められたせいだって言うんだろ? また誰かのせい……あんた、少しは自分の身に引き受けてみたらどうさ」 「おかあさん、私は今、真穂の痣の話をしているのよ」 「その話ならもう済んでいるじゃない? 真穂ちゃんは転んだと言った。私は知らないと言っている。それでもまだ私を疑う根拠は何? いい加減にしてよ、本当に」  時枝は香苗の顔も見ずにふいと立ち上がると、いったん衣装部屋兼寝室にゆき、着替えを済ませてまた出てきた。そのまま黙って玄関へと向かってゆく。 「出かけるの?」 「ああ」やはり時枝は香苗の顔を見ず、靴に足を突っ込みながら言った。「顔突き合わせていたら、お互いむしゃくしゃするだけだから」  ばたんといつもよりも大きな音を立ててドアが閉まり、時枝の姿が家の中から消えた。香苗は急に背骨の力が抜けたみたいになって、ずるりとその場に座り込んだ。コントロールできないぐらいに感情が激していたから、頭ごなしな言い方をしてしまったかもしれない。だが、香苗にしても、根拠なく言ったことではなかった。  仕事を終えてマンションにまで帰ってくると、下のエレベータの脇に、香苗の帰りを待ち構えていたような志水悦子の姿があった。彼女のほうはこれから出勤してゆくところで、派手なスーツに身を包んでいた。前に朝会った時とはまるで別人、厚く塗られたファンデーションの肌色と赤く艶やかなルージュとが、病人のようにくすんだ彼女本来の顔色を完璧なまでに隠していた。茶色の髪もきれいに巻き、瞼にもシャドーを施しているせいか、目の色までもが違って見えた。年齢不詳、たぶん香苗よりは少し若いのではあるまいか。ただし悦子に若さは感じられなかった。 「ああ、よかった。帰ってきた」  待ちかねていたように、悦子は腕を取らんばかりに身を寄せてきた。今夜も口からメンソールの香が漂う。 「何か、あったんですか?」香苗は二、三度目を瞬かせた。 「また山上さんのすごい喚き声と大きな物音がして……。今日は確かに聞いたわ、真穂ちゃんの泣き声。最初はえんえん泣いていたけど、じき痛みに耐えるような啜り泣きに変わった。今度は絶対間違いない」  言葉が出なかった。自分の顔から表情が消えていくのがわかった。胸の中に、むくむくと不穏な空気が充満していく。 「帰ったら、しっかり真穂ちゃんと話をして、真穂ちゃんのからだを確かめたほうがいいと思う。何かが打ちつけられるような大きな物音が響いた直後の大泣きだったから、あれは真穂ちゃんに関係あることだと思う。私、それをあなたに伝えなくちゃと思って」  そう言ってから、悦子は腕の時計に目を落とし、あっと両の眉を持ち上げた。 「ごめんなさい」その顔を見て香苗は言った。「私のこと、待っててくださったんですね。お仕事遅刻したんじゃありませんか?」 「ああ、大丈夫。遅刻は今日が初めてという訳じゃなし。私の自分勝手なお節介」そう言いつつも悦子は急に身が落ち着かなくなったような素振りになり、早くもからだを前へと動かしかけていた。「ごめん。それじゃ私、行くわ。またまた余計なことかもしれないけど、本当に確かめたほうがいい。あの様子はただごとじゃなかったもの」  悦子は大急ぎでそれだけ言うと、香苗にじゃあねと手を振り、カツカツと忙《せわ》しげにヒールの音を響かせて歩き始めた。歩きながら、携帯電話を取り出して店に電話をかけている。遅刻を詫びる悦子の声が、何歩かの間香苗の耳にも届く。その悦子の後ろ姿から目を離し、マンションのほうへと顔を向けた途端、ずしりとからだと心が重たくなった。悦子の話を鵜呑みにすまいと、自らを戒める気持ちもあった。が、彼女は店に遅刻してまで、香苗の帰りを待っていた。それはやはり、単なるお節介でできることではないと思う。またしても迷路、誰を、そして何を信じたらいいのかわからない。怒ってよいのか嘆いてよいのか、自分の気持ちの持っていき場所さえもが、香苗にはよくはわからなくなっていた。  帰って確かめてみると、真穂のからだには悦子の言葉を裏付ける証拠があった。思った以上に深く大きな酷い痣。痛々しさに、香苗は思わず顔を顰《しか》めた。子供は想像以上に弾力のあるからだをしているし、場所が尻という脂肪の多い部分だっただけに、この程度で済んだのだろう。打ちどころを間違えていたら、大事にならなかったとも限らない。悦子の話を、信じない訳にはいかなくなった。事実と認識した次の瞬間、時枝に対するどうしようもない怒りがこみ上げてきて、感情ばかりが走りだした。自分でも抑えがきかず、時枝に対して一方的に言葉を吐いたが、理性も冷静さも欠いてしまっていては何の解決にもならない。今、少し冷めた頭で考えてみると、いったい自分は何を求めていたのか、と思う。事実を確かめたかったのか、時枝に詫びてほしかったのか。しかし、仮に事実が明らかになったとして、それでどうなるというのだろう。香苗は真穂を連れ、すぐにはここを出てはゆけない。ならば今度は逆に時枝に頭を下げて、真穂に手を出さないように頼むのか。真穂と二人、出てゆけるようになるまでの、浅ましい限りの時間稼ぎ。  ビニタイルの床の上に座り込んだまま、しばらく香苗は動けずにいた。何の力もない自分自身が情けなかったし、感情が一気に激したことの反動で、どんな力も湧いてこなかった。容量以上にエネルギーを消費した神経が、だれて弛んだようになっている。少し、頭痛がした。  その晩時枝は、香苗が床についてもまだ家に帰ってこなかった。恐らくどこか知り合いの店で、自棄半分にしたたか飲んだくれているのだと思う。真穂はといえば、その日あったことなどもはや忘れ果てたような顔をして、いつものように眠りについた。香苗は真穂が羨ましかった。子供は忘れるという、大人が失くしてしまった能力を持っている。床にはいってからもしばらく香苗は、時枝が家へと帰ってくる物音を気にして神経を立てていた。が、じきに眠気のほうが勝ち、知らず知らずにうつらうつらし始めていたらしい。もはや眠りの沼に滑り込もうかというその寸前、香苗は真穂の声ではっと現実へと引き戻された。見るとかたわらの真穂は目を瞑《つむ》っている。だから起きて何かを言った訳ではない。寝言。  香苗は真穂の顔に自分の顔を近づけた。真穂の顔が少し歪み、何かを言おうとするように唇が動きかけた。神経を集中して耳を澄まし、真穂の口許を見る。  ぽっと魂を吐き出すように真穂の唇が開いた。「ひと……し」  それは咽喉の奥から絞り出されるような、どこか嗄《しわが》れた感じのする声だった。よく聞き取れず、香苗はさらに真穂に顔を近づけた。真穂はもう一度言葉を口にした。 「ひとごろし……」  人殺し──、思いがけない真穂の言葉に、薄い闇の中で香苗は愕然とした。子供だから、夢の中では自由に楽しく、お伽話のような世界を飛びまわっているのだろうと思っていた。それなのに──。  目を凝らして真穂の表情を見る。幸いなことに、真穂は苦しげな顔はしていなかった。香苗の目には、真穂の顔にうっすらとした笑みの如きものさえ浮かんでいるようにも見えた。それを救いに、香苗は軽く真穂の髪を撫でてから、自分も身を横たえて目を瞑った。ごめんね……瞼の裏の闇を眺めながら、心の中で真穂に詫びる。詫びながら、再び眠りに滑り込もうと試みた。が、眠りに落ちようとするとその寸前に、すかさず真穂のうわ言のような「ひとごろし」という声が耳の中にまた響く。窓の外では、地を打つ雨の音が聞こえ始めていた。気がつくと香苗は、闇に一人浮かぶように、すっかり眠りからはぐれてしまっていた。      9  夜、風呂にはいる時、真穂のからだを隅から隅まで眺めまわすことが、いつしか日課になった。それが自分でも情けなく、惨めに思える時がある。以来、からだの上に時枝の仕打ちを示すものは見当たらない。真穂には、自分にだけは何でも正直に言うようにと言い聞かせてある。けれども、真穂も頑ななところのある子供だ。何事もなかったし何事もない、そう言い続けてきかない。こちらもまたひと筋縄ではいかない。西納の家での七年間で、心のどこかが結ばれたまま、いまだほどけずにいるのだと思う。それでも香苗が執拗に問うと一度だけ、真穂はひどく大人びた、それでいてどこか胡乱《うろん》な目つきをしてぽつりと告げた。 「人が変わるんだよ」 「人が変わる?」  真穂はこくりと頷いた。「別の人間が出てくるってこと。病気なんだ。かわいそうなおばあちゃん」  それ以上は、どんなに訊いても詳しく言わない。だから香苗もそれだけの言葉から推測するよりなかった。人が変わる、別の人間が出てくる……真穂が言っているのはつまり、時枝の人格が変わるということか。いや、実際に変わっている訳ではないのだが、真穂の目にはそう映るということか。家の中でいかなる場面が展開する時があるのか、どうして家の空気が張りつめる時があるのか、真穂の言葉は朧《おぼろ》げながらもその答えを示しているような感じがした。夜叉か仁王の如き顔をして、真穂の前に立ちはだかる時枝。持ち前の低くていくぶん掠れた声に一層の凄味をきかせて、真穂を怒鳴り飛ばす──。とはいえ、孫にそんな恐ろしい顔を見せる必要がどこにあるのか。真穂の言葉によるなら、「病気」ということになるのだが。だとすれば、それは子供が嫌いという病気だ。 「また、子供のこと考えてるのか?」  城下の言葉に我に返る。城下はベッドに横たわったまま、煙草をふかしていた。まだ服は着けておらず、白いブランケットカバーから、裸の胸が覗いている。 「香苗ちゃんは本当におかあさんなんだな」  香苗は苦笑に近い笑みをうっすらと顔に浮かべながら、ブラウスのボタンをはめて襟元を整えた。  どうしてこの男と関係を持つに至ってしまったのか……ふとそれを考える。ほんの気の迷い、そういってしまえばそれで済んでしまうような気もした。別にこの男に恋心を抱いた訳ではない。狭いマンションの部屋の中、城下と二人きりでいることに息苦しさを感じているよりも、一気に垣根を飛び越えて、男と女になってしまうほうが楽だったことも事実だ。要は流されただけかもしれないが、そこにある種打算めいたものが働いていたことも否めなかった。今はこの程度のことしかしてやれないけど、いつか必ず真穂ちゃんとの生活が成り立つだけのことはしてやりたいと思っているから──、そんな城下の言葉に、からだを与える形で保険をかけた。しかし、考えるまでもなくこんなことは、保険にも何にもなりはしない。男は切り捨てようと思ったら、からだの関係があろうがなかろうが、いつだって平気で女のことを切り捨てる。それがわかっていても、香苗は何かに縋りたかった。藁にも縋るとはこのことだ。  当初香苗は、この男が何をして金を稼いでいるのかがよくわからなかった。だが、ふた月間近で見ているうち、おおよそのことがわかってきた。城下は、アドマンではなくいわゆる総会屋の手先のようなもので、表立って動けない彼らに代わって、企業から広告料を集めている。現実に企業の広告を載せた月刊誌を出してはいるのだが、あれは形ばかりのもの、ほぼパンフレットに等しい薄っぺらな内容でしかない。その金を仕手筋にまわしたり、仕手戦に関わる裏情報を集めたり流したり、株式相場にも一枚噛んだ仕事をしている。香苗は、株の世界のことは何も知らない。けれども、簡単に人の人生を左右するほどの金が動くものらしい。人の命を左右する金が、と言うのが正しいのかもしれない。読んでも読んでも読みきれないのが株価と為替、だから城下も事が思った方向に流れていかないと、追いつめられた人間の顔を見せる。マンションの部屋の窓から外を眺めながら、下手すりゃ二、三日うちに、ここから飛び降りなけりゃならないかもな、と呟いてみせたこともある。城下が相手にしている人間は、確かに普通の世界の人間ではない。ひと癖もふた癖もある、穏やかならざる世界の住人たちだ。彼らも城下も、世の常識とはかけ離れた、別の常識の中で生きている。  城下が香苗と関係を持つに至ったのも、香苗同様、そこに色恋の感情があったからではなく、きっとそんな暮らしのせいだった。一緒に仕事をしていればどうしても、秘密に関わる部分のことを共有せざるを得ない。となれば城下の側にしてみれば、からだの関係を持っておいたほうが安心できる。からだで口を塞ごうという男の打算。それに半ば命懸け、ぎりぎりみたいな毎日を送っていると、身の内にもやもやが募って充満する。それを解消する一番の方法が女を抱くこと。香苗は城下と実際に寝てみて肌身で感じた。城下は男としてはたぶん、くどくしつこいタイプだと思う。自分が内に抱え込んでいるものを、すべて女のからだにぶつけ、一滴残らず吐き出してしまわないことには納得しない。女のからだは、そのための道具みたいなものだ。香苗は一度寝ただけで、そんな城下のセックスに疲労感に似た失望を覚え、この男に何かを期待するのは間違いだと悟った。にもかかわらず重ねて関係を持っているのは、たぶん自分の寂しさや不安を紛らわそうとしているだけのことだった。  時計を見た。ホテルでうかうかと時を過ごしているうち、ふだんならば既に家に着いていてもよい時刻になってしまっていた。いつもよりも一時間以上は帰宅が遅れる計算になる。何が本当におかあさんだ、何が真穂のことが心配だ、やっていることはと言えば正反対──、胸の内で、香苗は自分自身を罵った。 「じゃあ私、先に出ますから」  身支度を完全に整えると、香苗はベッドの中の城下に向かって言った。顔はもう、さほどじっくり見なかった。 「おう」城下は、身を半分横たえたまま片手を差し上げた。「俺、明日は、事務所に顔を出すのは午後になるから」 「わかりました。何かあったら携帯呼びます」  ホテルを出ると、一度家に電話を入れた。まっすぐ家には帰りたくない気分だった。体《てい》よく言えば、城下に抱かれたばかりのよれたからだで、すぐには時枝や真穂と顔を合わせるのが憚《はばか》られた。電話には時枝が出た。時刻も時刻だし、そろそろ先に夕飯にしようかと思っていたところだと言う。 「そう。まだ私、ちょっと時間がかかりそうなの」香苗は言った。 「真穂ちゃんの分もあるよ。だから別に夕飯のことは心配しなくていい」声にとりたてて温かみはなかった。かといって突き放すような冷たさもなく、時枝の口調はごくあっさりとしたものだった。 「それじゃ私、一軒寄り道してから帰ろうかな」香苗は言った。「少し遅くなるって、真穂にも言っておいて」  本当のところ、行くあてはなかった。が、新大久保の駅まで帰ってきてから、春山の事務所に顔を出してみることを思いついた。いなければいないで構わないと思った。訪ねてみると、果して彼はまだ一人で事務所に残っていた。 「おう、山上。やっと顔を見せたか。まあ座れよ」  事務所の応接セットは黒の革張りの大きなもので、見るからに大仰という感じだった。象嵌《ぞうがん》の施された艶々と光った衝立《ついたて》、金色の額縁にはまった壁の宝石画、サイドボードの上の大絵皿……あまりよい趣味とは言いかねた。やはり普通の事務所とは雰囲気が違う。香苗はO町で一度訪ねたことがある、右翼の事務所を思い出した。あそこには日の丸と虎の敷皮があったが、春山ならば喜んで敷きかねない。革張りのソファに腰を下ろすと、香苗はもう少しでお尻が沈み込みそうになった。 「お、ちょっと東京の水に浸かったら、色っぽさが出てきたじゃねえか。はあ、さてはもう男ができたな」  香苗は渋い顔を拵えて春山を睨んだ。この手の男はその種のことに勘がいいし、かまをかけるのもうまい。 「褒め言葉だよ、おっかない顔するなって」春山は笑った。「で、仕事のほうはどう?」 「どうって言ったって、ただの事務……ううん、電話番だもの」 「それじゃろくな金にならねえだろ?」  香苗はあえて春山の顔は見ず、黙って小さく頷いた。 「仕事、あるぞ。ホテルの客室管理の仕事なら。ああいうホテルは二十四時間フル稼働だから、どうしてもシフト勤務になって、常に昼勤とはいかないけどな。そのぶん今の仕事よりはいい金になるんじゃないかな」  ありがとう、と香苗は言った。大久保のラブホテルの客室管理。正直、あまり気乗りのする仕事ではなかった。むろん、今は選り好みをしていられる立場ではないとわかっているのだが、もう少し城下の事務所で働いてみようという気持ちが残っている。ひょっとすると香苗は心の中で城下にケチをつけながらも、一方で棚からぼたもちのようなことを期待しているのかもしれなかった。あの手の仕事は、大きく当たるとはいってくる金も桁が違う。 「だけど今の仕事、紹介してもらった手前、すぐにやめるという訳にもいかないから。もうしばらくそこに勤めてみて、そのうえでまた相談にくるかも。その時は春山君、よろしくね」 「わかった。お前一人の仕事ぐらいなら、いつでも何とかしてやるって」  これでさらにひとつ保険をかけた。今の春山ならその力があると踏んで、いざという時に困ることのないよう顔を繋いだ。だんだんと、自分がいやな女になっていくような気がした。城下と寝ていることなど、考えようによってはからだを売っているようなものだ。それではこの街に巣喰っている娼婦たちとたいした違いはない。大久保に戻ってきて三ヵ月、早くも香苗はこの街に滞留する人々の意識に感化され始めている。大久保のムードに流され、染まっていくのが我ながらおぞましい。 「何だよ、浮かない顔しちゃって。山上は何でも真面目に考えすぎるんじゃねえか? 世紀末のこの日本、これまでの常識にとらわれていたら生き残れないぜ。風見鶏とおんなじだよ。その時その時の風を見て、いい加減にふらふらしながらバランスとっていくのが勝ちさ。わかるか? フライングスタビリティーよ」  春山は、小学校、中学校を通じて成績は悪かった。けれども人の心を見透かしたようなことを言うし、生きていくうえでの知恵も力も持っている。もしかすると本当に頭がいいというのは、こういうことをいうのかもしれなかった。 「やっぱり男の人って変わるのね。春山君がこんなに立派になるなんて、子供の頃は思わなかった。そうとわかっていたら、春山君と結婚していたのに」香苗は言った。 「馬鹿、こっちが断るぜ。顔は似ていなくても、何せあのかあちゃんの娘じゃな」  むろんそれは冗談だろう。それでも胸にちくりと刺さるものがあった。 「そう言えば、作田のおやじ、めっかったよ」 「え? あの人、まだ大久保にいたの?」 「また大久保にきたの、って言うのが正しいな。もっとも、今住んでいるのは市ヶ谷のマンションだけどな。あのおやじ、新潟の出身なんだな。金ができてちょっとゆっくりしたくなると新潟に帰って、うまいもの喰ってうまい酒飲んで……それでまた金を作りに大久保に出てきやがる。優雅な出稼ぎ労働者だぜ、まったく」 「新潟……あの人、新潟の出身だったの」  時枝の故郷も新潟だ。偶然ではないような気がした。時枝と作田は、東京に出てくる前からの知り合いではなかったか。そう考えると、二人の長年のつき合いにも納得がいく。少なくともこの大久保でどこの誰だかわからぬ相手と組むよりは、素性のわかった相手と組むほうが安心できる。だとすれば、香苗が知っている人間の中で、作田が最もよく時枝のことを承知しているということになる。時枝の原点とも言える部分を承知している男。 「作田さん、市ヶ谷のどこにいるの?」 「何だよ? 山上、作田のおやじに会いにいくつもりかよ?」 「うん……。何だか急に話がしたくなった」 「ああいう人間だからな、勝手に居どころを教えていいものかどうか……。二、三日うちにいっぺん会うことになっているから、お前が会いたがっていたって言っておくよ。それでおやじがいいって言ったら教える。だから四、五日したら、ここか俺の携帯に電話くれよ」 「うん、わかった」  もしかするとまったくの錯覚かもしれないが、不意に何かが見えつつあるような気がしていた。いずれにしても香苗は、自分が知らなくてはならない時期に差しかかっていることを感じていた。時枝のこと、自分のこと……思えば香苗は自分の父親のことさえ、何も知らないままだった。首藤修──、かろうじて知っているのはその名前だけだ。時枝が、自分が、どこのどういう人間なのかを知ることは、真穂のことを知ることにも繋がる。真穂は間違いなく香苗が生んだ香苗の血を引く子供だ。その子がどういう血筋の末端にいるのかを知っておくことは、この先香苗にとっても真穂にとっても意味あることだろう。現在が見えないのは、過去を何も知らないから。知れば少しはこの迷路の道順も、見えてくるのではあるまいか。 「これまで私、本当にぼんやり生きてきたんだなぁ……。何も考えず、何も見ず、何も感じず」  呟くと、春山が艶のある目をして笑っていた。そしてぽんぽんと、半分励ますように香苗の肩を叩いて言った。「おい、とにかく飯、喰いにいこうぜ。俺、腹空いた。今日は俺が、何かうまいもの奢ってやるからよ」  春山の言葉に、香苗は薄い笑みを浮べて頷いていた。      10  本当に作田と会うことが必要なのか、迷いはあった。ただ本能に近いものが、作田は時枝の近いところにある人間だと香苗に告げている。ためらいを残しながらも、香苗は翌週春山のところに電話を入れ、作田の連絡先を教えてもらった。春山に言わせれば、作田は裏の社会にも通じたなかなかの曲者ということになる。そういう男だから、ある面、慎重で警戒心も強いのだろう、香苗が春山から告げられたのは携帯電話の番号だけで、市ヶ谷のマンションの電話や住所は教えてもらえなかった。作田は作田で急に香苗が連絡をとろうとしてきた動機が掴めず、不審の念を抱いたのかもしれない。むろん香苗は作田に恐れられるような人間ではない。作田が警戒しているのは香苗ではなく時枝。彼は勝手に、香苗の後ろに時枝を見たのだろう。  電話は一度で繋がった。実のところ電話をかけるまでは、作田がどんな声の持ち主だったかすら忘れていた。が、ひと声聞いた途端に脳細胞の記憶が甦った。日向臭さに似た穏やかで温《ぬく》みのある少し曇った声……香苗はそれに、自然と懐かしさを覚えていた。 「本当にあの香苗ちゃんか? いや驚いたな。春山のぼんからあんたが私に連絡をとりたがっているとは聞いていたんだけれども、正直言うと半信半疑で」  香苗が会いたいと言うと、作田は嫌とは言わなかった。話の流れのまま、その週の土曜に会う約束をした。時刻は午前十一時頃、場所は新大久保駅前の喫茶店「サモワール」。三流ホテルのラウンジを思わせる、広いだけが取り柄の雑踏のような喫茶店だ。  その日は、学校のある土曜だった。真穂は昼には家に帰ってくる。だから真穂には一度家に帰ったら、「サモワール」に寄るようにと言っておいた。どうせ何時間もかかるような話ではない。その後真穂と外で昼食をとり、それから一緒にデパートへ買い物に行くつもりだった。少ないながらも今月の給料も無事はいった。季節もはや夏に移行しつつある。新しい服の一枚も買ってやりたかったし、たまには母子でデパートをぶらぶらして、気晴らしをするのも悪くはない。たとえささやかなことでも、今の真穂には何か楽しいことが必要だ。それを作る努力を母親の香苗がしてやらなければいけない。ずっとよいことなど何もなかった。今なお何ひとつとしてない。西納の家で患った真穂の病気も、いまだ治ってはいない。香苗は一昨日あったばかりの保護者会で、そのことを思い知らされた。  杉田由衣。真穂はその子と一番の仲よしで、いつも一緒に遊んでいると香苗に話していた。ピンクの自転車に乗った、戸山のマンションに住むタレントにしたいようなとびきりの美少女。けれども、クラスの名簿に杉田由衣の名前は見当たらなかった。保護者会にも、杉田という姓の母親はきていなかった。香苗は個人面談の時、友部明男という担任の教師に、ちらりとそのことを尋ねてみた。 「杉田、由衣、ですか?」彼は唇をちょっと突き出し、首を捻った。「いや、そういう名前の子は……。うちのクラスにはもちろん、学年にもいなかったはずですが。その子が何か?」 「いえ」香苗は慌てて首を横に振って言った。「真穂が家でその子の話をよくするものですから、私はてっきりクラスのお友だちかと。たぶん私の勘違いです。真穂は同じマンションの中でできたお友だちのことを言っていたんだと思います」 「杉田由衣、杉田由衣……」それでも友部は口の中でその名前を呟き、しばし考えるような面持ちを見せた。 「あ、先生、もう本当によろしいんです。単なる私の勘違いですから」 「いや、それが、僕にも何だか聞き覚えがあるような……」やがて友部はあっ、と声を上げ、顔にぱっと光を灯らせ笑い出した。「ああ、そうか。杉田由衣か」 「ご存じなんですか?」 「人気アニメの主人公の名前ですよ。ピンクのハイテク自転車に乗って活躍する──」  あらいやだ、私ったら現実とアニメの話との区別もついていなかったんだわ、と香苗は誤魔化した。だが、言うまでもなく現実とアニメの区別がついていないのは真穂だった。その実わかってはいても、現実が灰色であまりに面白味がないから、真穂はアニメを現実にと、故意に頭の中ですり替えているのかもしれない。真穂得意の現実からの逃避。うっかり聞いていると、いつの間にやらこちらのほうまで巻き込まれ、虚構を現実と取り違えてしまう。西納の母が、生来の嘘つきと言って眉を顰めて厭悪した真穂の癖、それがまだ治っていない。しかし真穂が悪いのではない。悪いのは真穂を取り巻く現実のほう、真穂は逃げなければならない現実の中にいる。  真穂は新しい学校で、まずまずうまくやっていけているようだった。勉強のほうは問題ない。ただ、やや内向的で口数が少なく、自分から積極的に友だちづき合いをしようとはしていない……そんな友部の話だった。 「ひょっとすると、ほかの子にくらべてちょっと精神年齢が高いのかもしれませんね」友部は言った。「時々びっくりするぐらいに大人びた表情を見せることがありますから。醒めた目、とでもいうか」  早く大人になってしまうのは不幸だった。大人になればなおのこと、世界が灰色に曇っていることを思い知らされるだけだ。もはや夢見ることも許されない。 「サモワール」で作田を待ちながら、香苗は真穂のことを想って爪を噛んだ。何とかしてやらなければと思うのだが、今は暮らしていくことだけで精一杯。そんな自分が口惜しい。  入口のドアから、作田がはいってくるのが見えた。最後に作田に会ったのは、確か香苗が高校三年の時ではなかったか。それから十五年もの月日が流れている。そのぶん作田も歳をとった。とはいえ、面変わりしてしまうほどではなかった。頭がずいぶん白くなり、ひとまわりからだが小さくなったようには見えるものの、彼の穏やかな中級紳士ぶりには変わるところがない。急に心臓がどきどきした。作田に会うのに緊張するというのもおかしな話だ。それは恐らく緊張ではなく、香苗の自信のなさを源とした胸の高鳴りだった。香苗も歳をとった。所帯やつれもした。今も幸せとはいえない日々の中にある。人の目に、香苗がかつてよりも見栄《みば》えよく映る道理がない。作田に驚いた顔をされるのが、少し怖かった。  作田はぐるっと店の中を見まわした。もしも彼が香苗を認識できないようならば、半分立ち上がって自ら指し示すよりほかあるまい。そう考えた矢先、彼は香苗に気がついた。はっと幾分目を見開いた後、作田の顔の上に以前に何度も目にしたことのある柔らかな笑みがゆっくりとひろがっていった。幸いにして作田の顔には、驚きの色も憐れみの色も見当たらなかった。そのことに、香苗は幾許《いくばく》かの安堵を得た。 「やあ、本当に香苗ちゃんだ」作田は瞳を輝かせて言った。顔にはビロードの手触りを思わせる滑らかな笑みを浮かべている。「久し振りだねぇ。何年振りになるんだろう。香苗ちゃんもすっかり大人になっちゃって。それじゃこっちが歳をとる訳だ」  久闊《きゆうかつ》を叙《じよ》する、とでも言うのだろうか、しばしありきたりの挨拶に似た会話を交わした。 「で、私に会いたいって香苗ちゃん、何か話でもあったの?」挨拶の後の短い沈黙を切り上げるように、先に作田が話の口火を切った。「まさかお母さんの具合がよくないとか、そういうことじゃないよね?」 「母は、お蔭様で元気にしています。やっぱり歳はとりましたけど。作田さん、母とは全然?」 「そうだね、もう何年も会っていないね。ずいぶん世話になっておいてご無沙汰ばかり、本当に申し訳ないと思っているよ」 「いえ、そんなことは。──あの、今頃になってこんなことをお伺いするのも失礼とは思うのですが、作田さんとうちの母とは、どういうお知り合いなんでしょうか?」  作田はよれた箱から、ゆっくりと煙草を一本抜き出した。ピース。そう言えば、作田は昔からこの煙草だった。ひとつひとつ記憶が甦る。 「オーナーと従業員、それは香苗ちゃんも前から知っていたと思うけど」作田は煙草に火を点け、少し煙たそうな目をして香苗を見た。 「そういう間柄だと、ずっと思っていました。でも、ついこの間春山君から作田さんも新潟のご出身だと聞いて、もしかして作田さんとうちの母とは、東京に出てくる以前からの知り合いではなかったかと思うようになったんです。考えてみれば、母が信用して長いことそばで働いてもらっていたのは作田さんのほかいませんでしたし。だから作田さんに訊けば、母のことやふるさとのことが、いろいろわかるような気がして」  作田はまだいくぶん煙たそうに目をしばたかせ、あえてその視線を香苗の顔からはずしてテーブルのコーヒーカップの上に落とした。それから持ち前のゆったりとして奥行きのある柔らかな声で言った。 「香苗ちゃん、あんたそういうこと、一度でもママに直接尋ねたことあるの?」 「……いいえ」 「基本的に私は、過去のことは気にしない。だってすべて過ぎてしまったことだもの。だけど人はそれぞれ気にするところが違う。私にしてみれば過去の些細な出来事に過ぎなくても、ママにとってはそうじゃないかもしれない。私自身のことならばともかく、ママに関することは私の口から話すべきではないと思うんだよ」 「………」 「親子なんだ。訊けばママだって、きっと答えてくれると思うけどね」 「そうでしょうか。父のことも私には、『もともとお前に父親なんてものはいないんだよ』と言い続けた人ですから」  ママらしいなと、作田は苦笑に近い笑みを目の下あたりに滲ませた。 「私自身、これまでそんなことはどうでもいいと思っていました。母がどういう家の人間であろうが、父がどういう家のどういう人間であろうが、私は私、関係のないことだと。でも、自分が子供を持ってみて、考えが少し変わりました。真穂のためにも──、あ、真穂というのは私の娘ですが、やはりそういうことはきちんと知っておいたほうがいいと思うようになったんです。ですから……」 「だから、そういうことを、ママにちゃんと話したらいいじゃない? そうしたらママだって話してくれるさ。ひいてはかわいい孫のためなんだもの」  かわいい孫──、作田の言葉が、逆に香苗の顔と心を曇らせる。 「母は私の娘のことを、別にかわいいとは思っていないと思うんです」顔をやや俯けたまま、翳った声で香苗は言った。 「え?」 「いえ、娘のことをというよりも、母はたぶん子供が嫌いなんだと思います。いい歳をして僻みっぽいとお思いになるかもしれませんが、子供の頃、私もとくに大事にされた記憶はありませんし」 「まあママは、確かに特別子供好きではないだろうね。だけどあんた、自分の孫はまた別だよ。子供が嫌いな母親はいても、孫が嫌いなおばあちゃんはいない」  やはり他人には理解できない、そんな気持ちが香苗のからだの中にひろがっていく。その気持ちの重たさは、絶望感によく似ていた。  作田は煙草の煙を吐き出し、ついでに小さく息をついた。「それじゃあ、私に関することを少しだけ話すよ」  作田は、新潟はN町の、今は八木沢地区と呼ばれている地域の出身だという。八木沢地区は昔から農業を主体としてきた村落だが、作田の家も例外ではなく、彼は農家の三男坊だった。 「貧しい農家の三男坊なんてどうにもならない。田畑はどうせ兄貴のものになる訳だし。それに、朝どっかの溝に落っこちたら、昼には村中の人がそれを知っているような田舎の狭い暮らしにも、私はほとほとうんざりしていた。それである時、東京に出てきてしまったんだよ」  それは作田が三十をいくつか出た頃のこと、彼には既に新潟に、妻もいれば子供もいた。東京には、ひと足先に村を出た八木沢出身の人間がいた。作田はその人物を探し出し、頼った。お蔭で作田は東京で職にありつくこともでき、自分の口を糊《のり》するばかりでなく、故郷に残してきた妻子にも、金を仕送りしてやることができた。その人物とは、その後長年にわたり一緒に仕事をした。 「それが母、だったんですね?」 「香苗ちゃん、私は自分に関することだけを話すと言ったはずだよ」  言いながらも、作田は続けた。 「その人は、もとは首藤という家の一人息子の嫁さんだった。首藤というのは八木沢では昔からの庄屋、いわゆる豪農だが、何かとしきたりのうるさい家でね。またそこの大奥さんというのが、とにかく気のきつい人だった。どうにも堪えがたいことがきっと何かあったんだろう、その人は赤ん坊を抱えて首藤の家を出てしまった。その人も気の強い頑張り屋の嫁さんだったからね、私が予想していたとおり、東京で子供を育てながら立派に暮らしていたよ。お蔭で私も救われた。その人には、今でも感謝しているよ。私が話せるのはそれぐらいかな」  香苗は黙って頷いた。わずかとはいえ、作田と会った収穫はあった。新潟県N町八木沢地区、自分が生まれた土地、父親の家のある土地だけははっきりとした。 「あとはやっぱり自分の口から、お母さんに尋ねてみることだね」作田は言った。 「すみませんでした。こんなことでお呼びたてしてしまって」 「いや、久し振りに顔が見られただけで嬉しかったよ」 「あの、もうひとつだけお尋ねしてもいいですか?」 「何だろう?」 「母と同じぐらいの年齢の女の人に、作田さん、何か心当たりはありませんか?」 「どういう意味?」 「私の留守中、時々母のところを訪ねてくる、六十ぐらいの女の人がいるみたいなんです。その人がくると母は精神状態が悪くなるというか、ひどいヒステリーを起こしたりするらしくて」 「ママがヒステリー? 信じられないな」 「癇に障《さわ》るような相手なら家に上げなければいいと思うんですが、それでも母は家に上げているみたいで。だからもしかして昔からの知り合いなのかしら、と」 「ママと同じぐらいの年頃の女の人ねえ……」作田は首を傾げた。「残念ながら心当たりはないな。若い子の面倒はよく見たけど、ママは昔っから友だちだの何だのはいっさい作らない人だったもんな。人をあんまり信用しない性質《たち》なんだな。ことに女は。──その人、最近できた知り合いじゃないの?」 「かもしれません。でも、その人、言葉に北の方の訛りがあるらしいんです。だから、もしかしたら新潟にいた頃からの知り合いじゃないかと思ったりもして」  作田は眉を寄せた。その日初めて見せる、少し険しく黒ずんだ表情だった。 「そんなはずはないな」作田は言った。「ママは新潟の人間、ふるさとの人間とはまず絶対につき合わないはずだ」  確信に満ちた作田の声と言葉に、今度は香苗が眉を寄せる。ふるさとの人間とはつき合わない──、自信を持って絶対と言い切れるだけの根拠は何なのか。  だが作田は、すぐに顔をもとの穏やかな色に戻し、香苗に向かって得意の柔らかな笑みを浮かべてみせた。 「まあ私も、もう何年もママとは会っていないから近頃のことはわからないけれどね」  根拠を尋ねようとしたところを、うまいことかわされたような気がした。作田の笑みは、柔軟そうでいて思いがけず手強い。柔らかに拒絶して立ち入らせることをしない。春山が言ったとおりの曲者だ。  ふと店の入口の方に泳いだ作田の視線が、宙に浮いたまま不意に止まった。作田ははっと目を見開いたきり、入口から目を離せずにいる。香苗もつられるようにドアの方に目を遣る。そこに真穂の姿があった。思わず香苗の唇が薄い笑みを形作る。真穂の可憐な容姿が思わず作田の目を瞠《みは》らせた、そう考えただけでくすぐったいような喜びが、自然と顔に滲み出す。  香苗は片手を上げて真穂に合図を送った。真穂はすぐに気がついて、香苗に向かってにっこり頬笑んだ。光に満ちた透明な笑顔。眩《まばゆ》いような肌の白。  真穂はテーブルへ歩み寄ってくると、「こんにちは」と作田に頭を下げ、香苗の隣の席に腰を下ろした。作田はまだ半分口を開けたまま、惚《ほう》けた顔で真穂を見ている。 「真穂です。さっきお話しした、私の娘の」香苗は、今日一番の笑顔で言った。 「……驚いたな」  魂が、思わず口から漏れ出たようなその声のあまりの深さに、香苗は改めて作田の顔を見つめた。真穂の見てくれの美しさに、ただ驚いたという顔とは違った。彼は何かに衝撃を受け、肝を潰したといった様子でいる。心なしか、その顔色が青白い。香苗は心持ち訝しげな面持ちを作り、どうかしましたかと問いかけるかわりに、黙って作田の目を覗き込んだ。  その視線に促されるように、作田は言った。「いや、何だか私、びっくりしちゃって……。血っていうのは面白いものだねぇ。今日香苗ちゃんを見た時にも、ああやっぱりすごく似てきたな、と思ったけど、これはまた」  香苗は思わず眉根を強く寄せ、二、三度瞼をしばたかせた。三十を過ぎた頃から徐々に顔が変わり始めたことは自分でも感じていた。しかしそれも歳のせいだと思ってきた。鏡の中に時とともに変わりゆく自分の顔を見出しても、時枝に似てきたと感じたことは一度もない。昔から、実の母子とは思えぬほどに似たところのない母子、今もそのことに変わりないと思っていたのだ。それも他人の目からすれば、違った見え方をしているのだろうか。加えて、香苗の目から見るなら真穂もまた、自分にも時枝にも少しも似たところのない娘だ。作田は自分たち三人のどこに血の面白さを見ているのか。 「このお嬢ちゃんが香苗ちゃんの娘さん……」作田は感慨深げに呟いた。「なるほど、これはかさねだな」 「え?」思わず目を見開いた顔を近づけて、香苗は作田に問い返した。「かさね?」 「あ、いや。私のひとり言」  そう言って頷いた時には、いったん青白くなった作田の顔には血の気が戻り、同時に笑みも戻っていた。香苗の目には、作田の笑みの質が、少し前とは些《いささ》か変質しているように映った。穏やかな中級紳士の顔は変わらない。しかしその眸の奥に、ほくそ笑むような光が見える。思いがけず価値あるものを拾った時の、噛み殺すような喜びの色。いったい作田は何を見つけたのか。 「あの……」  香苗が口を開きかけた途端、それを察したように素早く作田は席から立ち上がった。 「ごめん、香苗ちゃん。この後、人と会う約束をしていて……。よかったらまた連絡して。今度は一緒に飯でも喰おう。真穂ちゃんも一緒に三人で」 「あ……」  引き止める間もなく作田は伝票を手に、さっさとレジまで歩いていく。浮きかけた香苗の腰がソファに沈む。肩透かしを喰わされたような心地がした。置き去りにされた香苗の中に、「かさね」という言葉がひとつ残った。      11 「珍しいな、勉強か?」  背後から城下の声がして、同時に彼の身の気配と体温とが、香苗の背中に伝わってきた。城下は、生徒のノートを見る教師みたいに後ろから半分覆いかぶさるようにして、デスクの上の香苗の手もとを覗き込んだ。 「何だ、広辞苑か」  渋谷のこの事務所の書棚に並んでいるのは、「会社四季報」だの「投資レーダー」だの、開く気にさえなれないものがほとんどだ。その中で、香苗がかろうじて開くことがあるのが広辞苑だった。 「広辞苑で何を調べているんだ?」 「サモワール」で真穂を見た作田が、驚いた後に口にした言葉が気にかかっていた。かさね……広辞苑にはこうある。 [#ここから2字下げ] かさね【累】下総国|羽生《はにゅう》村の醜婦累は嫉妬深く、夫与右衛門に殺され、その怨念が仇《あだ》をしたという伝説を脚色した怪談。歌舞伎脚本「伊達競阿国戯場《だてくらべおくにかぶき》」「法懸松成田利剣《けさかけまつなりたのりけん》」、浄瑠璃「薫樹《めいぼく》累物語」、清元「色彩間苅豆《いろもようちょっとかりまめ》」で有名。 [#ここで字下げ終わり] 「累──。何だよ、歌舞伎でも見に行こうっていう訳か?」城下が言った。 「いえ、そういう訳じゃ。──この話、有名ですか?」 「有名だと思うよ。歌舞伎の怪談の演目としては、東海道四谷怪談に並ぶものじゃないかな。円朝の落語にもあったよな、『真景累ヶ淵』って。……あれはまた別の話か。歌舞伎だ落語だ清元だで、もとの話をそれぞれ勝手に脚色しちゃってるから、俺もちょっと混乱してるかもな」 「社長、結構詳しいですか?」  二人きりの事務所で「社長」というのもおかしな気がする時がある。けれどもほかに呼びようもないので、事務所では彼を「社長」と呼ぶことに決めていた。城下のほうは「香苗ちゃん」と呼んでいる。三十過ぎた女の職場での呼ばれ方としては不適切かもしれない。香苗も当初は抵抗があったが、今ではもう慣れてしまってどうでもいい。 「詳しかないよ」香苗に答えて城下は言った。「歌舞伎なんて見に行かないし。ま、常識的な教養の範囲だな」 「これ、怪談なんですね」  怪談というだけでなく、累が醜婦ということに、香苗は軽い衝撃を受けていた。どう見たところで、真穂は美少女であって醜女《しこめ》ではない。なのにどうして作田は真穂を「かさね」と言ったのか。 「四谷怪談によく似た怨霊話だったと思ったけどな。財産に釣られて結婚したはいいが、結局亭主は女房が疎ましくなって殺しちまう。女房殺し、亭主殺し、太古の昔から現代に至るまで世によくある普遍のテーマだな」  普遍のテーマではあっても、香苗にも真穂にもまったく関わりのない話。やはりあれは香苗の聞き間違いか。 「ん、待てよ」城下が両の眉尻を下げるような恰好で眉間に薄い皺を作って言った。「この話、確か続きがあったんだよな」 「続き?」 「続きっていうか、これ、因縁話だったんじゃなかったかな。累の母親が何か罪を犯していて……親の因果が子に祟《たた》り、ってことになって、累の娘もまたややこしいことになるんじゃなかったかな。──調べてみろよ。図書館か本屋に行ったら、何か本があるはずだから。しかし、何だってそんなことに関心持ったりしたんだ?」 「いえ、別に……」 「いえ、別に、ね」城下は、にやっと片頬だけに歪んだ笑みを浮かべてみせた。「香苗ちゃん、けっこう秘密主義なんだよな」  秘密主義ではないが、朧げながらにも物語を知ったからにはなおのこと、娘が人から「累」と言われたなどとは言いたくなかった。真穂を見たことがあるならともかくも、そうでなければ人はきっと、真穂がとりわけ醜い女の子だと誤解する。  城下がいくらか言葉をつけ足したことで、聞き違いに傾きかけていた気持ちが逆転した。罪を犯した母親がいて、娘がいて、そのまた娘が出てくる──。女三代にわたる因縁に、何か自分たちとの共通点を見た思いがしたのだ。  昼休み、香苗は書店に足を運んで資料を探した。近頃、本や資料を探すなどということはとんとしていなかったから、思いがけず時間も喰ったし骨も折れた。それでも何とか一冊本を見つけだし、帰りがけに買ったハンバーガーと一緒に事務所に持ち帰った。いつもならば時間を持て余してしまうような事務所での午後も、今日ばかりは退屈せずに済みそうだった。香苗はハンバーガーにかぶりつきながら、本のページを繰った。      *  時は江戸の初期、慶長十七年(一六一二)に遡る。下総国《しもうさのくに》豊田郡羽生村の百姓|与右衛門《よえもん》は、添って間もない妻に先立たれた。与右衛門には鬼怒川沿いに田畑が七石。肥沃な土地で作柄もよい。やもめ暮らしは何かと不自由、親戚筋の勧めもあり、やがて与右衛門は後添えを迎えた。相手の名は杉、同じくつれあいと死に別れた身の上の女だった。二人の相性は悪くなかった。夫婦として暮らすうち、男女の情も自然と通い合うようになった。ただ杉には、前夫との間に女の子がいた。名前は助。この子は生まれつき脚が不自由なうえ、とりわけ顔が醜かった。もともとが潰れた猿のような黒くて扁平な顔をしているうえ、顔中ひどい痘痕《あばた》がある。与右衛門は、どうしてもこの子のことが好きになれなかった。  日に日に与右衛門の助への厭悪は募るばかり、我慢しようと思えば思うほど、癇に障ってならなくなり、ついつい手を上げ足蹴にする。終いには杉にまで腹が立ち、当たり散らさずにはいられない。この子さえいなければ……心の中で与右衛門は、いつしかそんなことを思うようになっていた。  口に出して言わなくても、与右衛門の思いは杉にも伝わる。このままでは助を嫌うあまり、杉と別れるとも言いだしかねない。杉は不安にうち震えた。杉にしてみれば、与右衛門との暮らしはようやく掴んだ幸せ。むろん豊かな作物に恵まれた安定した暮らしも失いたくはないが、何より与右衛門を失いたくない。夫婦として肌を重ねるうち、杉の中では狂おしいまでに、与右衛門への情が募っていた。助がいるばかりに、それが損なわれようとしている。この子さえいなければ……杉もまた、与右衛門と同じことを思うようになっていた。  やがて杉は肚を決めた。助がいては、この先与右衛門と夫婦ではいられぬ。ならばこの子を殺すより法がない。  杉は助を鬼怒川へと連れて出た。母親のからだから湧き立つただならぬ気配を感じてか、みちみち助はほとんど口を利こうとしなかった。いよいよ川べりまでやってくると、杉は鎌を取り出し、半ば目をつぶるような勢いで一気に助の咽喉首を掻っ切った。血が潮の如く噴き上がり、杉の顔に降りかかる。杉は肌に助の血の温かみを感じながらも、まだ息のある助を川の中へと投げ捨てた。  助が消え、再び夫婦に蜜月が訪れた。一年後には子も生まれた。女の子。しかし二人は生まれた子供を見て色を失くした。脚は悪くない。とはいえ扁平な顔も肌色の黒さも落ち窪んだ眼も、助を彷彿とさせずにはおかない。しかもその子は四歳の折、疱瘡にかかって顔が崩れた。そうなってみればまさにありし日の助そのもの、生まれ変わりとしか思えなかった。夫婦はその子に累と名づけた。累と書いて「るい」。しかし、もはやその子を「るい」と呼ぶ者はいなかった。疱瘡のかさを掛けて「かさね」、いわば「醜女」の代名詞。杉は助の無念と怨念を、今さらのように思い知った。与右衛門も、助が紛れもないわが子として甦ってきたことに戦《おのの》き脅えた。とまれ二人は過去の罪業の恐るべき報いを身に受けて、累を大事に育てていくよりほかなかった。  だが、それで助の怨念はおさまらなかった。累が十八の年、与右衛門と杉は相次いで流行り病に斃《たお》れて命を落とした。結果、累には醜いわが身と七石の田畑だけが遺された。いかに肥えた土地とはいえ、十八の娘一人で田畑を維持していくことはかなわない。とはいえ、婿を取るにも村の男で累と添おうと思い切れるだけの人間はいなかった。その容貌の醜さもさることながら、助に瓜二つという因縁が恐ろしい。  そこに旅の六部《ろくぶ》がやってきた。ただし真の法華《ほつけ》の行者ではない。どこかの土地で喰いつめて、あちこちの土地を渡り歩きながら家々の戸を叩き、米や銭を乞うて世過ぎをしている流れ者だ。この先喰っていくあてのない六部ならと、縁者が婿入り話を持ちかけた。渡り歩きに疲れていた六部は、七石の田畑に釣られて話に乗り、婿となって義父与右衛門の名前を継いだ。  旅の垢を落としてみると、与右衛門は女泣かせのなかなかの美男だった。もともと遊びを心得た男で、それがゆえに身を持ち崩した。じき与右衛門の性は表に出て、よその女の許へと通い始めた。与右衛門に心底のぼせ上がっていた累は夫の色事が堪忍ならず、焼き餅を焼いては与右衛門のことを責め立てた。次第次第に与右衛門は、累の醜怪さと嫉妬深さが、どうにも疎ましくてならなくなった。とはいえ七石の豊かな田畑は命綱、これを手放す訳にはいかない。累さえ消えてくれたら……この女ならと思い定める相手ができた時、与右衛門は肚を括った。累を連れ出し鬼怒川べりで首を絞め、川に死体を投げ捨てた。与右衛門は知る由もなかったが、奇しくもそこは杉が助を殺した場所、かつて杉が犯した罪業を、与右衛門はそっくりなぞっていた。  鬼怒川に捨てられた累の遺体は淵に上がった。からだは水にふやけて倍にも膨らみ、目玉は魚に喰われて洞《ほら》となっていた。崩れる肉、藻の如く揺らぐ長い黒髪、漂う腐臭、澱んだ淵の深さ……いつしかそこは「累ヶ淵」と呼ばれるようになり、誰一人足を近づける者はいなくなった。  与右衛門は、早速新しい妻を娶《めと》った。だが、たちまちのうちに女は病に斃れて命を落とした。その次の妻も次の次の妻も同じだった。これも累の怨念か……しかし六人目の妻だけは病を逃れ、やがて女の子を産み落とした。菊、幸いにしてこの子は与右衛門に面差しのよく似た、見目麗しい女の子だった。  菊は十四にしてはや匂うような娘盛りとなり、与右衛門は菊に婿をとった。その直後、眠りを貪っていた累の死霊が目を覚まし、いきなり菊にとり憑いた。累は菊の口を借り、過去の与右衛門の罪業を口を極めて罵り散らす。愛しいわが子に自らの悪行をあげつらわれ、与右衛門は気も狂わんばかりに懊悩した。おまけに死霊にとり憑かれた菊は、形相までもが醜いものに変わってしまっている。このままでは、菊もいずれとり殺されてしまう……。  近隣の村に修行僧祐天がやってきていると聞き及んだ与右衛門は、祐天に一切の事情を話して救いを求めた。祐天は法力によって菊に「南無阿弥陀仏」の六字を唱えさせ、何とか累の死霊を駆り出し調伏《ちようぶく》した。かくして三代に及ぶ因縁の糸は断たれた。累は解脱を果たし、助の霊は成仏した。菊ももとの美しい娘に戻った。      *  気がつくと、ハンバーガーと一緒に買ってきたポテトが油と湿気を吸って、ぐったり萎えていた。ポテトはもはや放擲して、香苗は氷が溶けて薄まったアイスコーヒーをストローで啜った。  辞書を見る。六部というのは六十六部のこと。法華経六十六部を写して日本六十六ヵ国の霊場に各一部ずつ納めたことに由来する法華経の行者のことを指す、とある。後には鉦《かね》を叩き、鈴を振り、廚子《ずし》を背負い、家ごとに銭を乞い受ける者も指したというから、与右衛門の場合はこちら、各地を流れ歩く物乞いの類だろう。ちなみに一石は一斗の十倍、一斗は一升の十倍、……米俵は、普通四斗を一俵とする。従って七石なら、年間十七俵と半分の石高。それが多い石高なのか少ない石高なのか、香苗にはよくわからない。続けて下総国も調べてみた。下総は、今の千葉県北部から茨城県にかけての地域を言う。  茨城県──、その漢字を目にした時、頭の中で光が弾け、どきりとなった。香苗が大嫌いになった土地。さらに調べてみると、下総国豊田郡羽生村というのは、現在の茨城県水海道市あたりを指すことがわかった。水海道市は鬼怒川沿いの内陸部、太平洋沿岸に位置するO町とは離れている。けれどもやはり千葉県ではなく茨城県……因縁が、自分のことをも追いかけてきているような心地悪さがあった。 「やっぱり似てきたなと思った」という香苗に対する作田の言葉。真穂を目にした時の肝を潰さんばかりの表情。やはり作田の呟きは「かさね」に間違いなかったし、この累を指していたのだろう。時枝、香苗、真穂、この三人の母、娘、孫娘は三者三様、おのおのそのうちの誰にも似ていない。香苗の周りには時枝のほか、くらべるべき肉親、親族というものがなかったから、当然香苗はこれまで誰にも「似ている」と言われたことがなかった。真穂もまた、誰かに「似ている」と言われたことがない。しかし、その実香苗も真穂も、誰にも似ていない訳ではなかったのだ。今にして思えば真穂を見る作田の顔は、真穂に誰かを見ている色をしていた。恐らく真穂は誰かに生き写し、だからこそ作田は「累」と言った。あれは醜女の代名詞ではなく、瓜二つということの比喩。つまり、新潟のN町に、香苗と真穂、それぞれに似た人間が存在するということだ。ことに真穂は、誰かに怖いぐらいによく似ている。たぶんそれは、首藤の家の誰かか、さもなくば山上の家の誰かだろう。香苗には、それが首藤の人間であるように思われた。自分も真穂も、まったくという程に時枝の血を感じさせない容貌をしている。仮に山上家の誰かにそっくりならば、その血を引く時枝にも、少しは似ているところがあってもよい。  香苗は初めて切実に、自分の父親に会ってみたいと思った。父親ばかりでなく自分と血の繋がった親族を、一度自分の目で見てみたいと思った。  だが、それだけだったのだろうか……香苗はふと首を捻った。ただ似ているというのならば、「そっくり」だとか「瓜二つ」だとか言えば済むことだ。にもかかわらずあえて作田が「累」と言ったのは、別の含みあってのことなのか。  作田の、ほくそ笑むような顔が脳裏に浮かんだ。いやな予感がする。時枝は首藤の家との折り合いが悪くて家を出て、故郷も離れて東京にきたと聞いている。本当にそういうことだったのだろうか。それで実家との縁まで絶ってしまうというのは、思えばやはり尋常ではない。累の伝説の中にある因縁はといえば──。  まさか……思わず口の中で呟き、爪を噛む。いくら何でも考えすぎ、時枝が人まで殺すはずがない。仮に殺したとすれば、今日まで警察に捕まることもなく、無事やり過ごせている訳もない。胸に浮かびかけた馬鹿げた思いを打ち消す。が、渋いような後味が胸に残る。  時枝の顔を頭に思い浮かべた。浅黒い肌、秀でた頬骨、高い鼻。切れ長なのに大きな目、切れ上がった形をした大きな口。香苗のようなおとなしい顔立ちではない。ダイナミックな造り、強い顔立ち。子供の頃、テレビで西部劇の映画を見た時に、ああ、お母さんはインディアンに似ている、と思ったことを思い出した。見た目にも、香苗は母に肉親ならではの親しみのようなものを感じ得なかった。思えば香苗はまるで人種が違うような違和感を、時枝に対してずっと抱き続けてきた気がする。それだけに、本当のところ香苗には、今もって時枝という人間がわからない。  香苗は椅子から腰を上げ、食べ残しのポテトやゴミを流しへと持っていった。残ったコーヒーを排水口へ流し込む。迷路の道順を知るどころか、ひとつ知ればまたひとつ、別の謎が生じてくる。事はかえってややこしくなる一方で、出口はいっこうに見えてこない。  新潟へ行かなくては──、ゴミをポリ袋に押し込みながら、香苗は不意に思っていた。      12  え? おでこのたんこぶ? ああ、これは今日の放課後、由衣ちゃんと校庭のジャングルジムで遊んでいた時に手を滑らせて落っこちて、それでぶつけたんだ。大丈夫、痛くないから。由衣ちゃんがすぐに濡らしたタオルで冷やしてくれたし。やさしいでしょう、由衣ちゃんて。やだ、おかあさん、どうしてそんな顔するの? 由衣ちゃんのお母さんはお菓子作りの先生で、すっごく美人なんだよ。会ったこと? もちろんあるよ。あ、おかあさんのエッチ、いきなりスカートめくらないでよ。え? 脚の痣?……そりゃジャングルジムから落ちたんだもの、あちこち痣にもなってるよ。でも本当に大丈夫だって。──え? おばあちゃん? おばあちゃんは関係ないよ。真穂が怪我をしたことだって知らないもの、話してないから。どうしてって、たいしたことはなかったし、心配かけるのいやだったから。おかあさんは真穂が怪我をするとどうしてすぐにおばあちゃんのこと言うの? おかしいね。何遍も言ったけど、真穂、おばあちゃんのこと嫌いじゃないよ。茨城のおばあちゃまにくらべたらどれだけいいか。あのね、今だから言うけど、おばあちゃまは一年経っても真穂の左利きが直らなかったら、真穂の左手の指を一本切ってやるって言ってたんだよ。五年経っても直らなかったら、真穂の左手には指が一本もなくなっちゃうんだからね、って。真穂、それが一番怖かった。だっておばあちゃまなら本当にやるかもしれないじゃない。だからおかあさんが真穂と東京に行くって言った時、嬉しかったぁ。もうちょっと長く茨城にいたら真穂の指、一本なくなってたかもしれないんだもの。ここのおばあちゃんはそんな怖いことは言わないし、物差しで真穂の手をぴしゃぴしゃ叩いたりもしない。おばあちゃまよりもずっとずっとやさしいよ。真穂、ここが好きだな。学校にも慣れたし、由衣ちゃんみたいな親友もできたし。だからおかあさん、真穂がちょっと怪我したぐらいで、そんな怖い顔しないでよ。ね?      *  昨日でしょ? 聞いたわよ。どしんどしんって、まるで猫か何かが壁に何度も激突するみたいな音。山上さんの叫び声も聞こえたし。でも、この間のことがあるじゃない? また私の思い過ごしということになると、あなたを無駄に心配させるだけだし。だから黙っていたの。真穂ちゃんの声? ええ、それも聞いたわ。ギャーというような叫び声と泣き声……そう長くは続かなかったけど。それにほら、この間話したでしょ? 誰か別のおばあさんみたいな女の人の声が聞こえるって。あれ、昨日も確かに聞いたのよね。だからもしかすると真穂ちゃんを邪険に扱っているのは、山上さんじゃなくてそのおばあさんかも。え? 新潟弁? さあ……私、新潟弁てよく知らないから。でも、確かに一般に言う東北弁とは違う感じはしたわね。何ていうのかな……東北弁より訛りはきつくないんだけど、唇に一枚重たい膜がついたみたいな籠もった感じ。声も言葉も曇っているっていうか。その人はさ、ちょっと嗄れたような声なんだけど、か細いくせに案外響くの。だけど、昨日も姿は見なかったな。私、昼間はずっと家にいたから、お隣に誰かきたらわかると思うんだけど。いずれにしても、一度山上さんとじっくり話をしてみたら? あの物音や様子はやっぱりただごとではないし、謎の第三者が介在しているっていうのも気になるじゃない? 真穂ちゃんは、怪我をしたのは学校のジャングルジムから落ちたからだって言ってる訳ね。やさしい子なのね。私が子供の頃なんか親に言いつけるばっかりで、人のことを庇ったりなんかしなかったけど。だけど自分がそれだけ痛い思いをしていたら、母親には本当のことを話すと思うんだけどなぁ。──何、このメモ? ああ、あなたの会社の電話番号。わかった、いいわよ。緊急の場合だけ、電話入れさせてもらう。──ああ、気にしないで。私自身気になっていることなんだもの。何せ子供の問題だから。いいって。だから本当に気にしないで。      *  真穂ちゃんが怪我? いつのこと? 悪いけど私は気がつかなかったよ。あの子もそんなこと、ひと言も言わなかったし。──いやな目つきだね。あんたまた私が何かしたんじゃないかと、疑っているんでしょ? 冗談じゃないよ。私はあの子に指一本だって触れちゃいない。子供をいじめて喜ぶほど、私は根性悪じゃないからね。あの子が、真穂ちゃんが私にやられたって言ったわけ? ふうん……あの子は学校で怪我したって、そう言ったの。たいした子だよ。……どういう意味って、別に意味なんかない。ただ私には理解が及ばないっていうだけのこと。うちにお客さん? そんなもの来てやしないよ。あんたも知ってのとおり、私は昔っから家に誰かを招《よ》ぶのが好きじゃないから。私と同じぐらいの年齢の女の人? それがうちにはいるのを見たっていう人がいるの? わかった、それ、隣の女でしょう? ははあ、なるほど。隣の女が何だかんだとあんたにご注進に及んでいるって訳だ。だけどね、香苗、あんた隣の女のことをどれだけ知ってるの? 母親とくらべて、どっちが信用できるのかって訊いているんだよ。あんたとは二十何年一緒に暮らしたけど、あんたを酷い目に遭わせたり裏切ったり……私はそういうことはしなかったと思うけどね。ひとつ言っておくよ。あんたはね、自分が思っている以上に世間知らずなんだ。いいかい? 人はね、いつも自分の利益を考えて暮らしているんだ。誰かがあんたに手を差し伸べてくれたとしたら、それは純粋な好意からじゃなく、あんたに何かしら使い途があるからだ。うかうか人に気を許していたら、果てにはえらい目に遭うよ。とくにこの街で喰っているような人間にはね。あんた自身が痛い目に遭う分には構わない。それは自業自得ってもんだし、人間痛い目に遭わなきゃわからないこともある。だけどあんたの考えなしの言動で、人が迷惑するかもしれないってことも少しは考えたほうがいい。どういう意味って、わからないかな……。下手に誰かと接触して、迂闊につまらない話をしたりすれば、それで迷惑こうむる人間もいるってことさ。人に迷惑かけるようなことはしていない? ふふ、ご立派だこと。現に私は迷惑しているけどね。どういうことか、それは自分の胸に手を当ててよく考えたらいい。馬鹿馬鹿しくて、そんなのいちいち私の口から言う気にもなれない。──いずれにしても、そんなに真穂ちゃんのことが心配なら、いっそのこと仕事なんか辞めてうちにいたら? 私は別にあんたに働いてもらわなくったって構わない。あんたたち二人の喰い扶持ぐらいなら、どうにだってなるんだから。どうせ今の会社なんて、何をやっているやらわからないような会社だし、雀の涙ほどのお給料しかもらってないんだろ? 何よ、そんなおっかない顔しちゃって。私の世話にはなりたくないって顔だね。それならそれで別にいいよ。何でも好きにしてください。ああ、くたびれた。悪いけど、もう寝るよ。こっちだって歳なんだ、ぐっすり眠らないことにはからだが保《も》たない。じゃあね、おやすみ。台所の電気、消しておいてよね。  真穂に新たに見つけた頭の瘤、手脚にできた打ち身の痕。しかしそれに関する三人の話は、以前と同じように三者三様まちまちだ。  真穂の話に杉田由衣という名前が出てくるたび、香苗はぞっと心の内側が寒くなる。香苗も一度そのアニメを見た。杉田由衣はとびきりの美少女、ピンクの高性能のハイテク自転車に乗って子供ながら正義のために戦っている。由衣の母親は心やさしい美人で、洋菓子教室の先生をしている。真穂の話は何もかもがアニメのまま、たぶんもっと突っ込んで話を聞いたら、由衣の父親は商社に勤めるサラリーマンで、家にはジャーニーという犬がいる。由衣には携帯電話で密かに連絡をとり合うナナという名前の仲間がいて、実はその子は宇宙人なのだと、きっと真穂は言うだろう。時に香苗は両手で真穂の肩を掴み、「本当のことを言いなさい」と揺さぶりたくなる。しかし、苛立つよりも不憫と思わねば、真穂も救われない。病気なのだ……いつものように心で呟き、諦める。  志水悦子の話を真に受けてよいのかどうか、その判断も香苗にはつかない。少なくとも香苗に嘘を言ったところで、悦子に何の得もないと思うのだが、人の心はわからない。  常に揺らぐことのない時枝……所詮香苗が太刀打ちできる相手ではないのかもしれない。時枝は、香苗の迂闊な言動のために迷惑をこうむっているというようなことを口にした。この街で喰っている人間に心を許すなとも言った。あれはどういうことなのか。香苗がこの街で接触した時枝に関係のある人物といえば、作田ぐらいしかいない。あんな温柔な、よい笑顔をして、作田が何か仕掛けてきたとでもいうのだろうか。だが、作田から情報を得ようとしたのは香苗、こちらから作田に与える情報は何もなかったはずだ。……いや、真穂。あの時作田が見せたほくそ笑み。  やはり真穂は、時枝にとっては過去やふるさとの新潟に繋がる誰かに生き写しであるのに相違ない。そういえば、香苗が真穂を連れて大久保に戻った日の、時枝の様子が妙だった。最初時枝は笑顔を見せて香苗と真穂とを迎えた。が、屈み込むようにして真穂の顔を覗き込んだ途端、その表情は色褪せて、あっという間に凍りついた。十年間時枝とは没交渉、さすがに真穂が生まれた時に写真を送りはしたが、以後香苗は時枝に真穂の姿を見せてはいなかった。時枝は初めて目にした真穂の顔に、はっきりと誰か別の人間の顔を見たのだ。それに驚き、態度まで急によそよそしいものにならざるを得なかった。その反応から推測するなら、時枝にとって好もしい相手だとは考えづらい。作田の「累」という言葉が暗示しているように、よからぬ因縁を持った相手……「累」の伝説ならば、それは殺した相手ということになるのだが。  香苗は不意に悪寒に襲われたように、小さく身震いをしていた。      13  今ある不明の状況を見極めるためには、やはり一度新潟へ行ってみなければならないのかもしれない──、香苗の中にその想いが根づき始めていた。だが現実には、思うように動きのとれないまま、香苗は東京での久し振りの夏を迎えつつあった。  時枝が言ったとおり、「オンタイム」は会社と言えるような会社ではないし、仕事もまた同様だ。とはいえ勤めてそう時間も経っていないというのに、早くも休みをくれとは言いづらかった。加えて新潟までは往復で二万、いく日か向こうにとどまることになれば、どうしたって十万を超える金がかかる。情けない話だが、今の香苗にはその十万ばかりの出費がこたえる。  東京の夏は、思いのほか暑い。ぎらついた太陽は容赦なくアスファルトの路面やコンクリートのビルに照りつけ、あたり一面を熱していく。限度いっぱいまで蒸し上げられ、破裂せんばかりに膨張した空気。熱されたアスファルトからの照り返し、建ち並ぶビルや通りを行き交う車から吐き出される熱気、街に溢れる人の体温、人いきれ。それらを封じ込めるように空にかかった排気ガスの濁った膜……いざ現実に夏の中に身を置いてみて、初めて香苗は本当の意味で東京の夏を思い出した。街を覆う空気は熱いうえに湿気を帯びていて、息をするのさえ苦しくなってくる。しかも熱気は夜になっても冷めるということがない。夏の二ヵ月かそこら、東京は日本であって日本でなくなる。また、かつて香苗がいた頃とは異なり、街にもたれる熱気はただの熱気ではなく、人々の殺気までをも取り込んで、飽和状態ぎりぎりにまで膨れ上がっている。街行く人の頭の上に、イライラとした意識や殺気を孕《はら》んだ熱気が、身にのしかかるように粘っこく滞留している。それが余計に人の意識を刺激して、街そのものを殺気立たせる。伝染病。一触即発、夏の新宿の街は、どこか凶暴で、手のつけられない匂いがする。  東京の夏はまだ始まったばかりだ。なのに四、五日この狂気じみた空気の中に身を置いていただけで、香苗は早くも自分の心がささくれ立っていくのがわかった。明らかに気が短くなっている。何もかもにすぐさま嫌気がさして、大声をあげて投げ出してしまいたくなる。  茨城の西納の家から電話がはいったのは、ちょうどそんな頃だった。受話器から流れる声を耳にした途端、香苗は身の毛がよだつような思いに見舞われた。できることなら、生涯二度と耳にしたくなかったちずの声。 「お義母さま」自然と声が角張る。「ご無沙汰しております」 「ご無沙汰はよろしいの。お互い、それで一生済ませられればなおのことね。ですけどね、香苗さん、今度のことは放ってはおけないわ。あなたいったいどういうおつもり?」 「今度のこと、とおっしゃいますと?……」 「覚えておいでかしら? あなたは慰謝料も養育費も一銭もいらない、自分は真穂だけが望みだと大見得切って、西納の家を出ていった。それが今頃になって生活に困ったからといって、性質《たち》の悪い男を使って金を要求してくるというのはどういうこと? そんな卑劣な真似をして、あなた人間として恥ずかしくないこと?」 「お言葉ですけどお義母さま、私にはおっしゃっていることの意味がわかりません。私は今も昔も西納のお宅に、一銭だってお金なんか要求した覚えはありませんけど」  ふふんと、含み笑いに似た声が、受話器を通して伝わってきた。間近でちずに息を吹きかけられた気がして、香苗の肌は粟立った。 「それではお訊きしますけど香苗さん、城下とかいうのは、あなたの何? あちらはあなたの代理人のようなことをおっしゃっておいでだったけど」  知らなかった。城下が、O町の西納の家まで訪ねていったのだという。西納も茨城の県議会議員まで務めるO町でも知られた名家なら、少なくとも血の繋がった孫には、それなりのことをしてやるのが筋ではないか──、城下はちずや誠治を相手に、そんなことをまくし立てたらしい。  聞いているうち、熱い血がかっと顔にのぼってくるのが自分でもわかった。屈辱と憤りが腹の中でないまぜになり、香苗の胸を悪くさせ、血をたぎらせる。 「城下さんが何を申し上げたかは存じません。ですけどお義母さま、それは私が頼んだことではありません。城下さんが勝手に──」 「ですけど、あの城下というのは、今香苗さんがおつき合いなさっているお相手なのでしょう? いわばあの男はあなたの言葉を代わりに伝えにきた、そう解釈するより仕方ないじゃありませんか」 「いえ、本当に私はお金をいただこうだなんてまったく……」 「だけど、おつき合いはしている訳よね? あの男、離婚の経緯はもとより、この家の中の細かいことまで承知しているふうでした。それはあなたが寝物語にあることないこと、面白おかしく話して聞かせたからでしょう?」  以前のとおりだった。言葉遣いはどちらかというと丁寧で一応の品を保っていても、ちずの話はねちねちねちねち際限なく続く。こちらに逃げ場がないとなるとなおのこと、とどまるところを知らない。頭痛がし始めた。だんだんと、胃がむかついて気分が悪くなってくる。 「今回のことはお詫びいたします。城下さんにももうおかしな真似はしないようにと、私からもよく話しておきます」香苗は大きくひとつ息をしてから言った。「ただ、これだけはわかってください。今回のことは本当に、私の意とするところではないんです」  信じていいのかしらね、と、粘っこい声でちずが言う。横目でちらっとこちらを見やる、ちずの顔まで目に浮かんでくるようだった。 「今回のことが香苗さんの意思だったかそうでなかったかは別としても、一度は嫁いだ先のことを、他人様《ひとさま》にべらべらと喋りまくるというのは人間としていかがなものかしら。私はね、それをあなたに一番申し上げたいの」  城下には、西納の家のことは具体的には何も話していない。それどころか、O町の名前すら出した覚えがなかった。にもかかわらず城下は、西納の家のことから離婚に至った経緯まで、事細かに承知していたという。ちずが真穂の左利きを嫌って物差しで叩いたということに関しても、それは幼児虐待ではないかと、城下は脅し半分の口調でちずに詰め寄ったらしい。  香苗がそんなことまで話した相手は、時枝のほかにはただ一人しかいない。  城下を捕まえることができたのは、翌々日の夕刻になってのことだった。なかなか姿を見せない彼を事務所で待ち受けていて問い質《ただ》す。けれども彼は悪びれるでもなく、平気な顔で煙草をふかしながら言った。 「そういきり立つなって。西納の家へ行ったのは、香苗ちゃんのことを思ってなんだから」 「私のことを思ってって、そんなことお願いした覚えはありません。事情だって何もお話ししていなかったはずです」 「香苗ちゃん」城下は、ぷうっと白い煙を口から吐き出した。「相手は金持ちなんだぜ。香苗ちゃんと真穂ちゃんに対して責任もある。そこから金をもらうのは、これ、当然のこと。お金なんていりませんと言って出てくるのは、一見恰好いいようでいてとんでもなく大間抜けで恰好悪い。それじゃ母子の生活だって成り立たないし、この先真穂ちゃんの学資にも事欠くようなことになる」 「そうかもしれません。でも、だからといって社長がO町まで出向いて行くことはないでしょう?」 「俺が行かなかったら誰が行く? 香苗ちゃんはええかっこしいだから、自分からは行かないだろ?」 「──それじゃお訊きしますけど、社長と浩子は、いったいどういうおつき合いなんですか?」  O町にいる時から、浩子には電話で離婚のことも含め、いろいろと相談してきた。西納の家で何があったか、浩子は細かに承知している。思い返せば東京に戻ってきて初めて浩子に再会した時、香苗は彼女に対してある種の驚きを覚えたものだった。浩子は企業に勤めるサラリーマンの妻としては派手だったし、どこか崩れたような匂いを漂わせてもいた。あの時は、それも世間の時流なのだと、香苗は勝手に納得してしまった。互いに歳をとったのだ、とも思った。歳をとればそれを補う化粧も必要になってくるし、身を飾るブランド品だって欲しくなる。だが、少し違っていたらしい。 「離婚の細かな経緯や西納の家のことは、みんな浩子からお聞きになったのでしょう? つまり社長と浩子は男と女として、ごく親密なつき合いをしている、そういうことなんですね?」 「おいおい、あっちは歴とした亭主持ち、人妻だぜ」 「社長がそんなことを気になさるとは思えませんけど」 「彼女は株だの商品取引きだのに関心がある女なんだよ。そんなことから知り合った。大損もすれば大儲けもする、この世界、早い話が博打だな。彼女もいつの間にやらそれなしには生きてる気がしなくなっちまっている。パチンコ、競馬、賭け麻雀……今じゃギャンブルなら何でもこいだ。要は遊び友だち、ギャンブル仲間さ」 「それで二人して、私は金になるかもしれないと考えて、一応手の内に取り込んだという訳ですか。何でも博打ならば、人間関係だって同じですものね」  城下は、別に事務員を必要としていた訳ではない。すべては浩子と相談のうえのこと。香苗は嫁ぎ先の旧家を子連れで飛び出してきた身だ。うまくすればその家から、慰謝料、養育費を多額にふんだくれるかもしれない。そう踏んで香苗を囲い込んだのだ。香苗とからだの関係を持ったのも、金に紐をつけるのが目的だった。寝物語に話し合ったのは、城下と香苗ではなく城下と浩子。城下は、香苗と関係を持ったことまで浩子に話していたにちがいない。二人はそんなことで嫉妬し合うような仲の男女ではない。 「な、香苗ちゃん、俺に任せろよ。金はさ、いくらあったって邪魔になるものじゃない。反対に金がなかったら、三十万円の金がどうしても作れなくて首をくくるような羽目にもなる。恰好つけるのはやめようぜ」  何ヵ月か城下を見ていて香苗にもわかった。この男のしていることは文字通りの綱渡り、いつも泡銭《あぶくぜに》を追いかけて汲々としているだけ。いつの日か三十万円の金が作れなくて首をくくらざるを得ないようなことになるのは、他の誰かではなくて城下本人なのかもしれなかった。 「明日からここへはもう来ません」香苗は言った。「とにかく、西納の家に何かするのは絶対にやめてください。浩子にも、もう連絡しないからと、あなたから伝えておいてください」 「おいおい、そう短気になるなって。ここはつまらないプライドなんか捨てて、真穂ちゃんの将来のことを考えようぜ。そんなふうだから、『溝《どぶ》育ちのお嬢様』なんて言われるんだ」 「溝育ちのお嬢様……浩子がそう言ったんですか」自分でも、こめかみのあたりがひくひくとし、目尻が自然とつり上がっていくのがわかった。 「誰が言ったとか言わないとかじゃなくて──」 「浩子が、そう言ったんですね」  要は、ドブのように濁った臭い水の中、さんざん汚れた水を飲んで育ってきたくせに、きれいごとばかり言っている世間知らずの間抜けだと、浩子も城下もそう言いたい訳だ。怒りが、逆に香苗の頭を冷たくしていた。凍った瞳で、貫くように城下を睨みつける。 「私にも西納の家にも、二度と近づかないで。もし何かしたら、私もただでは済まさない。私は本気です。そうなったら、本当に何をするかわからない。その覚悟だけはしておいてください。女だと思って甘く見ないで」  城下は、しばらく香苗の顔を黙って眺めていたが、果てに声をあげて笑いだした。 「は、なるほど、それが香苗ちゃんの本性か。地が出たな。さすがに昔大久保で鳴らした女の娘だよ」  城下をもうひと睨みした後、香苗は事務所を飛び出した。悔しさに、知らず知らずに涙が滲む。友だちに、こういう裏切られ方をするとは思っていなかった。男に、こういう扱われ方をするとも思っていなかった。カモにされかけた自分が惨めだったし、腹立たしくもあった。  信号待ちの時、ショーウィンドーに映った自分の姿がふと目にはいった。神経が引き絞られたような、険しく鋭い顔つきをしていた。顔は似ていない。しかしその自分の顔つきに、香苗は母の時枝を見た。乳呑み児を抱え、大久保の街で必死に闘ってきた母。さすがに昔大久保で鳴らした女の娘だな──、城下の捨て台詞が思い出された。初めて時枝に似ていると、人から言われたような気持ちがした。香苗は時枝のようには苦労していない。かつての時枝の喘ぎにくらべれば、まだまだかわいいものだろう。けれども当時の時枝の苦渋、屈辱、憤り、葛藤……そんなものを、ぼんやりとだが自分の肌で感じることができたように思った。城下や浩子に対して血が煮え立つような怒りを感じて尻を捲《まく》った時、香苗の中には時枝がいた。これまでろくに感じてこなかった時枝との血の繋がりを、香苗は唐突に意識していた。      14  肩を落とし気味にして夕暮れ時の大久保通りを歩く。思えば東京に戻ってきてからというもの、胸を反らしてこの通りを歩いたことなどほとんどなかった。行き交う人々は相変わらず元気がいい。香苗には意味の取れない言葉で声高に話しながら、時に大きな笑い声を立てる。雑然とした街、窮屈で小汚いアパート、不法滞在、中間搾取、肉体労働、夜の仕事、モンキービジネス……彼らの置かれている状況は、香苗のそれよりはるかに劣悪なはずだ。気にしない、気にしない──、東南アジアの人々のどこか底の抜けたような気質が、今は少し羨ましい。  時計を見る。いつもよりも遅い帰宅。香苗は途中スーパーに寄り、鶏《とり》のから揚げとポテトサラダ、それにホウレン草の白和えと稲荷ずしをひとパックずつ買った。全部出来合い。スーパーの白いビニールの袋を手に歩きながら、これでは昔の時枝と同じではないかと、香苗は苦みの強い嗤《わら》いを頬に滲ませた。だが、明日からは料理にも時間がかけられる。何せ香苗は、今日で職を失った身の上だ。  マンションの前まで来ると、もう夕刻だというのに運送屋の小型トラックが駐まっていて、何やら荷物を積み込んでいた。引っ越しにしては車が小さい。誰かが家財道具を一部処分するために呼んだ便利屋かもしれない。その様子を横目で見ながらエレベータに乗る。四階まで上がってみると、四〇四号室の部屋のドアが開いていて、中に人の気配が感じられた。志水悦子の部屋。  通りすがりにちらりと覗いて、香苗は肝を潰した。部屋の中はひどく散らかっていて、足の踏み場もない。引っ越しのため家財道具が雑然としているというのとも違う。空き巣だの泥棒だのがはいって荒らしたというのとも違う。言ってみれば長い時間かけて、積み重ねるようにとり散らかしていったというありさまだ。脱いだものも古新聞もゴミも食器も一緒くた、酒の空き瓶が床にゴロゴロ転がっている。いずれにしても臭うような散らかり方で、今にも床のチラシや生ゴミの袋の下からゴキブリが這い出してきそうだった。夜には隙のない化粧をして、派手なドレスやスーツで身を飾りたてて仕事に出かけていく悦子。疲れた素顔は知っていても、彼女の部屋がこんなにも荒れ果てているというのが信じられない。奥の部屋では、何事かを相談するような人声がする。  ふと見ると、香苗の家のドアも細く開いていて、そこから表の様子をうかがうように、真穂が顔を覗かせていた。 「おかえりなさい」  香苗と目が合うと、真穂は笑みを浮かべて言い、ドアを大きく開けて香苗を中に迎えた。台所では、昔で言うアッパッパのようなワンピースを着た時枝が、何やら夕食の支度めいたことをしていた。そのワンピースは、香苗が子供の頃に時枝が着ていたものではなかったか。時枝の物持ちのよさには、時に感心するより呆れてしまう。家電も道具も昔のままで、時枝は実際、贅沢ということから縁遠い。いつか春山も言っていたが、この三十年必死で稼いだはずの金は、いったいどこに浮いているのか。 「ねえ、お隣さん、何かあったの?」  香苗は着替えに部屋に戻ることもせず、時枝に尋ねた。 「ああ、今日、岐阜だかにいる両親が出てきてさ、ひと悶着あったすえに無理矢理あの娘《こ》を連れていったんだよ」 「連れていったって、故郷《くに》に連れ帰ったってこと?」 「たぶん違うんじゃない? まずはどこかの病院に入れたんだろ」 「病院って、あの人、からだが悪かったの? 病人みたいな顔色はしていたけど」 「アル中だよ」事もなげに時枝は言った。「あんた、気がつかなかった? あの人いつ会ったって酒臭かったじゃない。それを誤魔化そうとしてぷんぷん香水つけたりミントの口臭除去剤みたいなものを使ったり」  朝会ったというのに、化粧もしていない悦子がふんだんに香水の匂いを漂わせていたことを思い出した。話をした時、ぷんとメンソールの匂いが漂ってきたことも。あの時は、歯磨きをした直後なのだと思っていたが。 「このところどうも言動がおかしかったらしいよ。それで親御さんが様子を見にやってきてみたら、という顛末。部屋の中、滅茶苦茶だったろ? あれでよく店にだけは出ていたよね。酒飲みたさ、酒代欲しさの一心かね」 「あの人がアル中……」  ピンポンと、呼び鈴が鳴った。香苗は「はい」と返事をしてから玄関口へ立った。管理人の荻野正勝。六十代後半の、白髪頭の痩せた男だ。 「ああ、山上さん。どうも夜分にお騒がせしてしまって申し訳ありません。作業のほう、あと一時間かそこらで終わらせますんで。中を見ちゃった以上、ゴミだけはどうしたって今日中にある程度カタをつけてしまわないと、こっちも気分が悪くて」  言いながら、ほら、と荻野は四〇四号室の方に目をやった。つられて身を乗り出して見てみると、表に車を駐めていた便利屋が、部屋に散乱していた酒瓶をカートのようなもので運び出していくところだった。一升瓶が主だが、焼酎やウィスキーの瓶も混じっている。いずれにしても半端な量ではない、五、六十本はあるのではないか。しかもあれで全部ではないと荻野は言う。 「ベランダに、日増しに段ボールの箱みたいなのが増えていくな、とは思っていたんですよ。その中身が、すべて酒の空き瓶だったっていうんですから。台所のシンクの下も押入れの中も空き瓶だらけ」 「どうしてそんなに……」 「瓶の収集は週に一度ですからね。一日一本空ければ週に七本。さすがに毎回それだけの酒瓶を出すのは憚《はばか》られる。それで小出しにしていたら、どんどん後がつかえて、気づいた時にはどうにもならないような酒瓶の山……そういうことだったんじゃないんですか。──志水さん、おたくにも何か変なことを言いに行きませんでしたか?」 「いえ……別に」香苗は荻野の目を見ずに、ぽつりと答えた。 「だったらいいんですけど、あの人この頃、時々変なこと言ったりしていたから。実を言うとあたしも、ちょっと危ないな、とは思っていたんですよ」 「変なことと言いますと?」 「わざわざ管理人室にやってきましてね、このマンションの地下室にホームレスの男がはいり込んで寝泊まりしている、なんて言う訳です。それも背恰好から風体から、まるで自分の目で見たみたいに事細かに話すんですよ。顔つきだって真剣そのもの、実に真に迫っていてねぇ」 「あの、ここ、地下室なんてものがあるんですか?」  香苗の言葉に、荻野は、はは、と声を立てて笑った。「ありませんよ。なのに何度も『今日もいた』なんて大真面目に言いにくるから余計に気味が悪くって。終いにはこっちも影響されて、電気管理室にはいるのまで怖くなっちゃったりして」  香苗に真剣に訴えていた時の、悦子の昏い瞳と顔が脳裏に浮かぶ。 「要は幻覚ってやつ。中毒症状ですね、アルコールの。電話での様子がどうも変だと、親御さんが出てきてくれてよかったですよ。だってあれじゃこれからますます暑くなるっていう時に、まったく大変なことでしたもの。業者に頼んできれいにクリーニングしてもらって手を入れたうえで、また別の方にはいっていただくことになると思います。しばらくは、そんなこんなで多少ばたばたするでしょうが、ま、ご勘弁ください。そのことだけまずお伝えしておこうと思いまして」  わざわざどうも、と荻野に頭を下げ、ドアを閉める。知らず知らずに吐息がひとつ。アルコール中毒による幻覚、幻聴……結局は、そういうことだったのだろうか。だとしたら、振りまわされた香苗はとんだ道化だ。重たい疲労が身にひろがる。浩子、城下、悦子……人の言葉はみんな偽り。 「今日、お隣のおねえさん、すごかったんだから」真穂が言った。「ギャーギャー叫んじゃって、真穂、パトカーが来るんじゃないかと思ったよ。お部屋の中は滅茶苦茶だし、おねえさんは引きずられて連れていかれちゃうし。おかあさんが見たらきっとびっくりしたと思うな」 「今見ただけでもびっくりしたわよ」  香苗はビニール袋から惣菜のパックを出し、テーブルの上に並べ始めた。食卓には既に、時枝の作った焼き茄子、冷や奴、それに鰯の生姜《しようが》煮が置かれていた。 「おかあさん、ごめんね。今日ちょっと遅くなっちゃって……。お惣菜少し買ってきたから一緒に食べよう」 「そうだね」  時枝はテーブルに着き、グラスに冷や酒を注いだ。時枝のいつもの習慣だった。 「たいがいの人は気がついていた訳ね」香苗は言った。 「何が?」 「お隣さんがアル中じゃないかってこと」 「ま、そうだろうね」 「直接話をしながら気がつかなかったのは私ぐらいのものか。やっぱり世間に疎いのね。反省しちゃう」  溝《どぶ》育ちのお嬢様──、城下の言葉を思い出す。 「ふうん……今夜はやけに殊勝なんだ」 「おかあさん」 「何さ?」 「あのね、実は私、今日で失業しちゃったの」 「そう」ろくに香苗の顔も見ずに、グラスの酒を口に運びながら時枝は言った。素っ気なくてさりげない相槌の打ち方だった。 「今度は、少し将来の見込みがあるような仕事を探す。だからしばらく厄介かけると思うけど、なにぶんよろしくお願いします」 「馬鹿だね。いちいち頭なんか下げなくったっていいんだよ。喫茶店からの上がりや何かで、女三人食べていくぐらいのことはできるんだから」 「ありがとう」 「ほらまた。頭なんか下げなくていいって言ったのに」  親子だからそんな挨拶は抜きでよいということか。やはりこの人は私の母、私はこの人の娘、そんな思いにふとほだされかける。 「だけど本当にすごかったんだよ」稲荷ずしに箸を伸ばしながら、いくぶん興奮気味に真穂が言った。「真穂、あんなの初めて見ちゃった。瓶がお部屋からごろごろ……瓶に埋もれて寝てたのかなって、おじさんたちも言ってたよ」  香苗は軽く息をつき、首を小さく横に振りながら言った。「真穂、子供はそういうことに首を突っ込まないの。あっちこっちでべらべら喋ったりしたら駄目だからね」 「どうして?」 「どうしてって、どうしても」 「変な理由。だけどあれ、みんなお酒の瓶でしょ?」 「さあねえ」 「そうだよ。真穂知ってるもん。中に『八海山』もあったしさ」 「『八海山』? 何よ、『八海山』て?」 「おかあさん、知らないの? 『八海山』は『八海山』だよ。ねえ、おばあちゃん」  見ると時枝の顔つきが変わっていた。今し方まで、素っ気ないふうを装いながらも和《やわ》らいだ空気を感じさせていた面が、いきなり硬直したものにすり替わってしまっている。思わず香苗は箸を持つ手を止めた。 「おかあさん、どうかした?」 「あ……ごめん。ちょっと考えごとをしていた」 「だから『八海山』だよ」なおも真穂が言う。 「私は……知らない」  強張ったままの顔で時枝は言い、真穂の顔も香苗の顔も見ずに、グラスの酒をきゅっと呷った。また石の如くに閉ざされた時枝の顔、時枝の心。八海山……香苗は頭の中で繰り返していた。      15  バブル崩壊から始まった日本の不況は、今も続いている。今頃になってボディブローが効いてきて、新たに倒産する企業も出始めている。西納の家にいた頃は家の中の世界がすべて、あとは県議を務める舅の治一郎の関係筋の対応に追われるぐらいで、香苗は世の好不況もないままに時を過ごしてきた。失業して職を探し始めてみて、ようやく世の景気を実感したというところだった。職はなかなか見つからない。スーパーやコンビニのレジ係、ファミリーレストランやファーストフードチェーンのウェイトレスのような仕事ならばあるにはあるのだが、パート仕事では先の展望が開けない。二百万でも三百万でも誠治から慰謝料なり養育費なりをもらって出てきていればと、いまさらながら香苗は思う。その金があって時枝の許に身を寄せていたら、当面食べていくのはもちろんのこと、この先仕事につくのに有利なように、パソコン教室や簿記学校に通うことだってできたろう。城下の言うとおりかもしれなかった。恰好ばかりつけて後で窮している。人間の吹き溜まりのような街で育ちながら、香苗はろくに現実を知らない。時枝という強い風除けがあったから、呑気に過ごしてきてしまったのだろう。苦労が足りていない。足りないぶんの苦労は、全部時枝に負わせてきた。  春山のところをもう一度訪ねてみようかとも考えた。山上一人ぐらいの仕事ならいつでもどうにかしてやると、前に彼は請《う》け合った。頼っていけば春山は、きっとその言葉を違えることなく面倒を見てくれるだろう。ただそれは最後の手段にしたかった。ゲームセンターやラブホテルの経営を、他の商売にくらべて低く見るつもりはない。だが、それでは余りに大久保だった。春山のところに勤めに行くようになったら、香苗はどっぷり大久保暮らしに浸かってしまう。きっと一生この街で、そうした暮らしに染まって生きていくことになる。いつかここを出ていく、そう思うから先に希望が持てる。逆にずっとここで暮らしていくと考えたら、暗い穴を覗き見ている心地になる。  時枝は、別に慌てることはない、と言ってくれている。子供を育てながら長く勤められるような仕事を、今年いっぱいかけて探してみたらいいと。折しも真穂も夏休み、時枝も香苗が家にいてくれたほうがありがたいらしい。真穂が昼間学校へ行っているのならともかく、朝から晩まで狭い部屋の中で二人顔を突き合わせていると、さすがに時枝も息がつまるようだ。やはり時枝は真穂が苦手……それはたぶん、真穂が時枝に誰かを思い出させずにはおかない子供だから。  家の中に身を置き終日過ごしてみると、そこは退屈だが平和で穏やかな日常の場で、時枝と真穂の間にも、特別心配するような空気は流れていなかった。これまでは、昼間の時間をこうして自分の目で見ていることができなかったから、ああも容易に悦子のでたらめに振りまわされてしまったのだと思う。彼女も口から出任せを言って、無駄に香苗を心配させようと思った訳ではなかったろう。あれはアルコールで溶けかけた脳細胞が感知した彼女にとっての事実。とはいえ、もちろんこれですべての疑問や疑惑が氷解したということではなかった。  八海山というのは、新潟にある山の名前だという。そして新潟には「八海山」という銘酒がある。真穂があの時言ったのは、酒のほうの「八海山」。真穂も小学校の二年生になったから、八、海、山の漢字ぐらいは当然知っている。しかしそれをすんなり「はっかいさん」と読むのは少々できすぎか。しかもほかにも違う銘柄の酒瓶がたくさんあったのに、あえて新潟の酒である「八海山」の名前だけを口にした。あの時、時枝はいきなり真穂の口から「八海山」の名前が出たことに、明らかに動揺していた。香苗の知っている母は、何があっても動じたりするような女ではない。なのにどうしてそれしきのことに心揺さぶられてしまうのか。時枝の弱点は新潟にある。もはやそれは明らかと言ってよいと思った。新潟という土地、出来事、それに通じることは、恐らくすべて忘れてしまいたいことなのだ。しかし真穂は新潟を思い起こさせる。何故か新潟に連なることには妙に勘も働く。  幸か不幸か、職を失って時間ができた。次の職に就いて身動きがとれなくなる前に、香苗は新潟、N町の八木沢地区というところへ行ってみようと決めた。ここ何ヵ月か、「オンタイム」に勤めながらちまちま貯めた金がいくらか手元にあった。その金をここで吐き出してしまうのは痛いが、それに関する記憶を持っている人間がこの世にいるうちに事実を確かめておかなくては、間に合わなくなってしまう。うじうじ迷っている暇はなかった。時枝には、長野にいる学生時代の友だちを訪ねてくると話した。彼女も是非遊びにこいと誘ってくれているからと。 「いいじゃないの。行ってあちこち見物して、少しのんびりしてきたら」時枝は言った。「だけど真穂ちゃんはどうするの?」 「真穂は……連れていくわ」  真穂がいれば、どうしたって自由に動きがとりにくくなる。だから本当は、家に置いて行きたかったが、このうえ真穂の面倒まで時枝に押しつけて行く訳にもいかない。  時枝はいったん自分の居室に使っている和室へ行くと、封筒を手に戻ってきた。「はい、これ。交通費」 「いいわよ、おかあさん」 「お金なんかないくせに」 「それはそうだけど」 「お財布空にして人の家に行ったら、恥を掻くよ。宿代はいらないにしても、少しは持っていかないと」 「……ありがとう。それじゃ借りておく。また働くようになって余裕ができたら、その時はきっと返すから」  ふふ、と時枝は笑った。「あんたは昔から変なところ律儀なんだ。あんまり真面目すぎると、逆に今の世の中生きていきづらいよ」  部屋に戻ってから中を覗いて見ると、封筒の中には札が二十枚収まっていた。正直その金はありがたかった。が、時枝が隠している過去を知るために、嘘までついて新潟に行くのだと思うと、後ろめたさが胸に萌した。ことによると、これは時枝に対する一番の裏切りなのかもしれない。  八月にはいって間もなく、香苗は真穂を伴《ともな》い新潟へ向かった。途中上越新幹線を在来線に乗り換え、またバスを乗り継ぐ。 「おかあさん、ここ、長野?」 「ううん」香苗は首を横に振った。「長野の近く。でも長野じゃない。──あのね、真穂、これはおかあさんからのお願い。約束してほしいの。本当言うとね、おかあさんも真穂も長野へは行かないの。だけどそのことは、帰ってもおばあちゃんには言わないで。約束できる?」 「いいけど……。どうして?」 「おばあちゃんは、知らないほうが幸せだと思うから」 「だったら真穂たち、これからどこへ行くの?」 「おかあさんと真穂は、長野の友だちの家じゃなく、山間《やまあい》の温泉に行って旅館に泊まるの」 「ふうん……」  いかにも納得いかなげな真穂の顔だった。  上越新幹線ができたから、新潟方面へ行くのはかなり便利になったものと思っていた。けれども現実に旅してみれば、そういうことでもなさそうだった。東京から長岡、新潟へ直通の新幹線はあまり本数が多くない。高崎まで、長野新幹線と同じ線路を使っているからかもしれない。しかも新幹線を降りてしまうと在来線の目は粗く、乗り継ぎの便も悪ければ本数も少ない。うっかりひと駅先まで足を伸ばしてしまったら、その日のうちには新潟なり長岡なりの主要駅には戻ってこられないようなことにもなる。そのぶん路線バスは発達しているようで、高速バスもあちこちに向かって走っている。地元の人たちはきっとうまいことバスを乗り継いで、往き来を果たしているのだろう。だが、よそ者にはバス路線というのはわかりにくく、利用しづらい。スキー客がくる冬場はまた別だろうがそうした交通の不便さも手伝ってか、夏休みだというのに観光客の姿も疎《まば》らだった。これでは季節はずれの平日に、鎌倉あたりにでも行ったほうがよほど観光客で混み合っている。  新潟を訪れるのは初めてだった。これまで香苗は新潟というと、漠然と山に囲まれた雪深くて狭苦しい感じの田舎を想像していた。頭の上には鈍色《にびいろ》の厚い雲が垂れ籠めて、息がつまってくるような。香苗が実際に目にした新潟は違った。あまり山は見当たらない。在来線で走っていても、八海山のような高い山は稀、目にはいるのはほとんどがぼた山のような低いものばかりだ。そこから広くて平らな田んぼが、一面日本海の方に向かってひろがっている。新潟は、想像していたよりもはるかに平坦な土地だった。日本でも一、二の米どころなのだから、思えば平らな田んぼの面積が広いというのは、至極当たり前のことだった。にもかかわらず、閉塞的で息がつまるような土地や風景を勝手に思い描いていたのは、時枝が新潟での暮らしに耐えきれずに東京へ飛び出したという話が、頭の中にあったせいかもしれない。ただ、晴れてはいても、空が低く頭は重たい。日本海からの雲が、ストレートに流れてくるからかもしれない。道幅や歩道は、東京よりも広くとってあるのではないかと思うぐらいに広々としている。雪国だから、冬場雪除けをしても車や人が通れるだけのスペースは、確保しておかなければならないのだろう。ただし、道路も歩道も建物も、決してきれいとは言えなかった。降雪、積雪、それに融雪剤の影響か、道は油を撒いたような赤茶の錆色に染まっているところが多く、ビルや家にも赤黒い汗のような滴りの痕が、壁面に汚れた筋を残している。雪景色に清明な美はあっても、その後に残るものは裏腹だ。  バスを降り、N町八木沢地区に初めて立つ。ここもまたぼた山とあとは一面田んぼという、典型的な新潟の田舎町だった。あたりを見まわし息を大きく吸い込む。とりたてて懐かしいという思いを喚起されることはなかった。まだ物心つかない赤ん坊だったのだから覚えている道理もない。一方で、初めてきたという気もしない。脳のどこかには朧げな記憶として、ここの土地や風景が残されているのかもしれない。 「おかあさん、これからどこへ行くの?」真穂が訊いた。 「そうねえ……おかあさん、ちょっと訪ねてみたいところがあるのよ。真穂、つき合ってくれる?」  真穂と手を繋いで、首藤の家へと向かう。家の所在は、大久保の家を出てくる前に調べてきた。  地図を頼りに首藤の家を探す。やがて小さな杜《もり》のようなものが行く手右側に見えてきた。杜ではなくて防風林に囲まれた民家の敷地、それが恐らく首藤の家だった。  首藤と書かれた表札のある門の前に立ち、香苗は臆したように立ち竦んだ。想像をはるかに上まわる、実に立派で大きな屋敷だった。借景にするような形で裏山を背にし、周囲をぐるっと大きな防風林でとり囲んでいる。石造りの門から奥に向かって延々と小径が続いていて、中に大きな神社でもあるのかと思うほどだ。覗いてみると、奥の屋敷は古そうだった。頑丈な木を組んだような、いかにも重厚な造りをした家で、生き物ではないというのに、長い年月生き抜いてきた風格のようなものすら漂わせている。半端な農家ではなかった。N町では言うに及ばず、県下でも有数の昔からの豪農なのではないか。  ここが私が生まれた家……香苗は心の中で呟いた。すぐに実感が湧いてこないものの、もしもここで暮らし続けていたならば、まったく違った人生が展開していただろうかと、そんなことを考えてみる。 「凄い家ね」家から目が離せぬまま、香苗は真穂に囁きかけた。「このおうち、よぉく覚えておいて。きっといつかこの家がおかあさんや真穂にとってどういう家だか、話してあげられる時がくると思うから」  掌の中には確かに真穂の手の感触があった。けれどもいっこうに返事がないことに、しばらく経って気がついた。真穂……香苗はようやくかたわらの真穂の顔に目を移した。  見ると真穂が黙って涙を流していた。喜びとも悲しみともつきかねる、歪んだ表情が顔の上に浮かんでいる。それは香苗が初めて目にする種類の真穂の表情だった。 「真穂、どうしたの?」驚いて香苗は言った。 「私の家だ。ここ、私の家だ」  真穂の口から呟きにも似た嗄れ声が漏れた。香苗は目を見開き、身を屈めて真穂に顔を寄せた。こみ上げる思いに咽喉がすぼまったりすると、おかしな声になることがある。しかし一瞬香苗には、それが真穂が発した声とは信じられなかった。細く嗄れた老婆の声。しかも少し訛ってはいなかったか。 「真穂、どうしたの? ここは確かにおかあさんや真穂には関係の深いおうちよ。だけど真穂はここで生まれた訳じゃない。どうしたの、真穂? ね、しっかりして」  香苗は真穂の頬を伝わる涙を、タオルのハンカチで拭ってやった。だが真穂はなお、圧倒的な存在感を放つ首藤の家を茫然と眺めながら、苦しげに顔を歪めている。 「お前さんら、首藤の家に何か用かい?」  茫然と立ち尽くしている母子を不審に思ったのだろう、自転車で通りかかった老人が、香苗に向かって声をかけてきた。何と答えてよいのかわからない。ええ、まあちょっと……香苗は曖昧な受け応えをして、顔にも掴みどころのない薄い笑みを浮かべた。 「あ、お前さん方──」  香苗と真穂の顔を見て、途端に老人の顔色が変わった。両の目が大きく見開かれ、驚いたように香苗と真穂とを交互に眺めている。 「とうとう、戻って見えたんかい……」  老人は、口の中で呟くように言うと、自転車に乗ったまま、血相変えて首藤の家の敷地の中へ走り込んでいった。その後ろ姿を、呆っ気に取られたように見送る。やはり誰かに似ている、そういうことなのか。ひと目見て、明らかにそれとわかるほどに。  香苗は、もう一度屈み込んで真穂を見た。老人から不意に声をかけられたせいだろうか、真穂は既に自分を取り戻し、いつもの様子に戻っていた。涙したことなど忘れ果てたようなけろっとした顔だ。 「どうして泣いたりなんかしたの? おかあさん、びっくりしちゃった。それに急に私の家だなんて言いだしたりして」 「だって真穂、知っていたんだもの、この家のこと」 「ここへくるのは初めてなのよ」 「でも覚えているんだもの。昔おばあちゃんもここにいた。おかあさんもいた。おかあさんは今の真穂よりもずっと小さい赤ちゃんだったけど」 「真穂──」  合っている。それだけに、腕あたりに鳥肌が立った。  奥の家の方から、男が二人歩いてくるのが見えた。一人は先刻泡を喰って中へ飛び込んで行った老人。今度は自転車を押しながら歩いてやってくる。その老人に先立つように歩いてくる男が一人。男は、六十半ばという年恰好だった。近づいてくるにしたがい、その顔が徐々にはっきりと香苗の網膜に像を結ぶ。  険しい表情をしていた。それでも穏やかな品よい顔立ちは損なわれていない。香苗と同じ目の形をしていた。すっきりとした二重、いくぶん灰色味を帯びた茶色の瞳……目の色までもが同じだった。通った鼻筋、口角の上がった薄めの唇……派手ではないがまとまりのよい整った顔立ち。男と女の違いはあるものの、骨格、顔の輪郭までもがよく似ている。自然と胸がきゅっと締めつけられた。おとうさん──、声にはならなかった。香苗の咽喉もすぼまっていた。      16  すぐ目の前にまでやってきた男は、厳しい表情を浮かべたまま、黙って香苗と真穂とを見た。見る間にその顔から血の気が退いていく。いっぺんに白茶けてしまった男の顔。真穂に向けられた目は瞳孔までもが開いたようになり、手にはぶるぶると小さな震えが走った。 「突然にすみません。あの、私、山上香苗と言います」いくぶん上ずった声で香苗は言った。  男は、強張った顔で二度小さく頷いた。「わかります。私は……首藤です。首藤、修です」  首藤修、紛れもない香苗の父親。  香苗に名乗ると、彼は自転車の老人を振り返り、頭を下げて礼を言うことで、老人をその場から追い払った。  それから改めて香苗のほうに向き直って言った。 「中から車を持ってきます。だからここで待っていてください」  わかりましたと言うかわりに、黙って香苗は頷いた。「まあ中にはいれ」と、快く家に招じ入れてもらえるとは思っていなかった。ここは香苗の生まれた家かもしれない。しかしそれから三十三年もの月日が流れてしまっている。今は彼にも別の妻がいて、子供たちがいて、孫たちもいて、違う家族、生活が、そこでは展開しているに相違ない。突然訪ねてこられるのは、彼にとっては迷惑なことだったろう。けれども香苗は、ほかに方法を知らなかった。  やがて砂利音を立てながら、中から白いセドリックがこちらに向かってゆっくりと近づいてきた。彼はいったん外に降り立ち、香苗と真穂を車へ誘《いざな》った。「立ち話も何ですから、どこか話ができるところへ行きましょう」  しばらくは、車のエンジン音と道路をタイヤが転がる音だけが低く響いていた。真穂はといえば、黙って窓の外の景色を眺めている。考えてみれば、タクシーに乗っている訳でもないのに、母子して後部座席に座っているというのもおかしな図だった。バックミラーには、いくらか皺の走った修の目もとのあたりが映っている。相変わらずその目は険しげな光を帯びている。しかし香苗は、その皺にさえ懐かしさに近いものを覚えていた。 「新潟には今日?」沈黙を破って修が言った。 「はい。ご連絡も差し上げずにいきなりお邪魔したりして、本当に申し訳ありませんでした」 「いや……いつかくるだろうとは思っていたから。それが今日だとは思っていなかったけど」  いつかくるだろうとは思っていた──、香苗はかすかに眉を寄せた。実の父娘なのだから、いずれ対面しなければならない日がくると思っていたということか。思えば、修はひと目見ただけで、香苗を自分の娘と認識し、真穂を自分の孫と認識した。いかに似ているとはいえ、それはあまりに早すぎる合点の仕方ではなかったか。  小一時間ほど走ったろうか、修は国道沿いのドライブインに車を駐めた。真穂はお腹が空いていたのか、ジュースに加えてサンドイッチを注文した。 「真穂です。私の娘の」  既にわかっているとは思ったが、香苗は改めて修に真穂を紹介した。修は真穂の顔を見据えながら、どちらかというと苦い表情をして小さく頷く。それからズボンのポケットからハンカチを出して、一度に汗が噴き出したといわんばかりに、乱暴に顔を拭った。 「離婚、したそうだね」  今度は香苗が驚く番だった。「どうしてそれを?」 「作田、知っているよね? あの男からある程度の話は聞いている」 「作田さん……」 「真穂ちゃんの写真も一度見せてもらった。だから、近々あなた方に会うことになるのだろうと、自分なりに覚悟していたつもりだったんだけれど」 「作田さんが真穂の写真を持っていらしたんですか?」  ああ、と修は頷いた。香苗の顔が曇る。だとすれば、作田はいつかどこかでこっそりと、真穂の写真を写したということになる。 「子供を抱えての生活は大変だろう。私はあなたに対して何もしてやれなかった。だから今、少しばかりの手助けならしてやるだけの用意がある。銀行の口座番号を、教えておいてもらえないだろうか。そうしたら後日、いくらかの金は振り込ませてもらう」  香苗はアイスコーヒーのグラスに伸ばしかけていた手を止めた。「そんなこと……。もしかして、何か誤解していらっしゃるんじゃありませんか。私はそういうつもりでここへ来たのではありません。ただ私は、自分の原点みたいなものを知っておきたかっただけです。自分のためにも、この子のためにも」 「香苗さん、確かにあなたはあの家で生まれた。そしてまだ赤ん坊のうちにお母さんに連れられて、あの家を出た。それがあなたの原点だよ。それは確かめられた訳だからもういいじゃないか? だからもう、あの村、八木沢地区には近づかないでくれないだろうか」 「それはつまり、あなたは紛れもない私の──」 「香苗さん」  あなたは紛れもない私の父親……そう言おうとしたのを、修にぴしゃりと遮られ、撥《は》ねつけられた恰好になった。唇にのぼらせかけた言葉を、仕方なしにまた飲み込む。 「三十年あまり前に、すべて決着がついたことなんだよ。だから私はあなたに対して名乗る立場にない。名乗る資格がないと言うべきかもしれない」  しばし重たい沈黙があった。真穂はただおとなしく、サンドイッチを食べては時々ストローに顔を近づけて、咽喉を潤すようにジュースを飲んでいる。 「母は何も話してくれません。だから私、知りたかったんです。どうして母があの家を出たのか、どうして実家の山上家とまで縁を切ってしまったのか……。母が話してくれない以上、それはもう片方の当事者に尋ねてみるよりほかありません。それで私はここへ来たんです。話していただけないでしょうか? 当時の経緯みたいなものを」  修は渋い顔をして、ポケットから取り出した煙草に火を点けた。マイルドセブンだった。 「香苗さん、人には知らなくていいこと、知らないほうがいいことというのがあるんだよ。すべては過去のことだ。それを今さらほじくり返してみたところで仕方がない」 「過去のこと……。でも、その血はこの子にまで息づいている。──この子、首藤家のどなたかによく似ているのではありませんか?」 「香苗さん、申し訳ないが私の口から話せることは何もない。過去に何かがあったという訳でもない。世間によくあるように、私たちは離婚した。それだけのことだ。あなたの気持ちもわからないではないが、もうこれ以上、過去をほじくることはやめてもらいたい。八木沢地区にも足を踏み入れないでほしい」  香苗は小さく溜息をついた。久方ぶりの親子の再会、いや、実質これは初めての対面に等しい。しかしながら明らかに、修は香苗を厄介者扱いしている。それも彼には彼の生活があることを思えば、致し方ないことなのかもしれなかった。 「口座番号、ここにメモしてもらえないか?」  修がナプキンを一枚抜き取り、自分のボールペンを添えて差し出した。 「そういうつもりで来たのではないと、先ほど申し上げたはずです」  溝《どぶ》育ちのお嬢様という言葉が頭に甦り、心の中で香苗は自らを嘲った。 「だからといって……この子を、首藤の直系として、首藤の家の中に入れることはできない」  この子と言った時、修はちらりと真穂に視線を走らせた。香苗の口許に、ひきつれのような歪んだ笑みが滲む。 「本当に、何か誤解なさっているのではありませんか? 私には逆に、あなたのおっしゃっていることの意味がさっぱりわかりません」 「しかし作田は──」  それで香苗にも何となく合点がいった。真穂の写真まで密かに撮り、修のもとを訪れたという作田。大久保の喫茶店で見せたほくそ笑み……彼は勝手に何かを企み、動き始めている。つまるところの目的は金、それしかあるまい。 「作田さんが何を言ったのかは知りません。でも、私とは何の関係もないことです」 「しかしあなたは、あの男と会ったり話をしたりしているのだろう?」 「一度だけです。作田さんなら何かご存じなのではないかと思って、一度お話をお聞きしただけです」 「あの男とは、関わらないほうがいい」修は白い煙を吐き出しながら言った。「作田は昔から癖のある男で、ある意味では村の鼻つまみ者だった。今じゃ東京で作った金で大きな家を建てて、村でもえらそうな顔をしているが、どうせろくなことをして稼いだ金じゃないことぐらい、誰もが承知している」  だとすれば、そんな男と承知で時枝は長年作田とつき合ってきたということになる。そのろくでもない金を作る片棒も担いだ。二人は同じ穴の狢《むじな》。それとも──。 「香苗さん、過去などにはこだわらないことだ。あなたは真穂ちゃんと一緒に、これから先の人生のことを考えて、今という時を生きていったらいい」 「そうしたいと思っています。でも、この先の人生を考えるためにも過去を知ることが必要だと思ったんです」 「………」 「母と真穂は、もうひとつしっくりいっていません。それは母にとって真穂が、忘れたい過去を思い出させる子供だからではないかと私には思えるんです。ひとつだけ、教えていただけませんか? 真穂はいったいどなたに似ているんですか? それはきっと首藤の家のどなたか……」 「誰にも似てやしない」苦りきった顔で、修は煙草を灰皿に押しつけるようにして揉み消した。「別に誰にも似ていない」  香苗は再び小さく溜息をついた。「やはり、何もお話ししていただけないようですね。……わかりました。突然お邪魔して、本当にご迷惑をおかけしました」  今晩はどこに泊まるのかと問われて、香苗は長岡の近くの柚木《ゆのき》温泉だと答えた。ならばそこまで車で送っていくと修は言う。本当ならば結構ですと、きっぱり断って席を立ってしまいたかった。けれども真穂がいる。在来線とバスとを乗り継いでいたら、下手をすれば三時間近くかかってしまう。車ならば一時間ちょっと、それを考えて、この際送ってもらうことにした。ドライブインを出る前に、香苗は一度手洗いに立った。鏡の中の自分の顔が、すっかりくすんでしぼんで見えた。父親との初めての対面、厄介者でしかない自分、少しも見えてこない過去……何のためにここまでやってきたのか。肩が落ちる。  フロアへ戻ってみると、修と真穂が座っているテーブルに異様な空気が漂っていた。修の顔は蝋のように白い。完全に血の気の失せた顔で真穂を見つめ、ぶるぶると身を震わせている。にもかかわらず真穂は、喜色満面といったご機嫌そのものの面持ちで、これまで香苗に見せたことのないようなくしゃくしゃな顔をして、からだ全体で笑っている。香苗は一瞬その真穂の顔に、老獪な女の顔を見た気がした。しばしテーブルの脇に立ち尽くす。 「どうか、なさったんですか?」  香苗の声で初めて我に返ったように、修は香苗の顔を見た。そして静かに首を横に振る。「いや……別に」 「でも、お顔の色が……」 「いや、本当に何でもない。さ、送っていこう」  勘定を済ませに立った修の背を見送りながら、香苗は低声で真穂に尋ねた。「どうしたの? 真穂、おじちゃんと何かお話ししたの?」 「別に。ただ真穂、『修ゥ、会いたかったよォ』って言っただけだよ」  驚いて真穂の顔を見た。言葉もさることながら、香苗は真穂の声と口調に驚いていた。「修ゥ」と言った時の嗄れた声、唇に半分押し潰されたようなくぐもった感じのする口調、それは明らかに真穂とは別人のものとしか思えなかった。 「真穂……どうして? どうしてそんなこと」 「知らない」あっけらかんとして、真穂はふだんの声に戻して言った。「東京に来てから時々そういうことがあるんだよ。勝手に唇が動くんだ」  あっ、と突然香苗は思いいたった。志水悦子が言っていたこと、あれはアルコールに溶けた彼女の脳細胞が聞いた幻聴という訳ではなかったのではないか。姿の見えない幽霊のような老婆、曇ったような訛りのある女の声、その正体は実のところ、この真穂ではなかったのか。  いつだったか真穂は香苗に、別の人間が出てくるんだ、病気なんだ、かわいそうなおばあちゃん、と言ったことがあった。それはてっきり時枝の人格が変わったように見えるということであり、そういう時枝を病気と言って憐れんでいるのだと思っていた。しかしそれが自分自身のことを言っていたのだとしたら。  累《かさね》──、作田が口にした言葉を、香苗は改めて思い起こしていた。      17  車の中ではほとんど修と言葉を交わさぬまま、柚木温泉へ着いてしまった。真穂が突如口にした言葉に、修はすっかり動顛してしまっている様子だった。頭はもはや別のことなど考えられない、あとはただ、とにかく柚木温泉まで車をまともに走らせるだけ……はたで見ていて精一杯という感じがした。真穂は首藤の誰かに似ているばかりでなしに、半ばその人物が、のりうつったようなところがあるのかもしれない。時枝にとっても、修にとっても、過去に何か深い因縁のある誰か。だから時枝を動じさせ、修までも震え上がらせる。作田はあの時、そこまで見抜いて言った訳ではなかったかもしれない。しかし奇しくも彼が口にした「累」という言葉は、悪い予言のように成就してしまった。記憶の中から完全に締め出してしまいたい過去の因縁が、新しい命とともに甦り、報いの矢となって身に返ってくる──。過去、N町八木沢地区で、首藤の家で、いったい何があったのか。  修は香苗と真穂とを旅館まで送り届けると、別れ際、もう一度香苗に口座番号を尋ねてきた。しかし香苗はやはり黙って首を横に振った。金は欲しい、大袈裟に言えば咽喉から手が出るぐらいに。とはいえ、まるで強請《ゆす》りかたかりのように実の父親から金をもぎ取るような真似は、何としてもしたくなかった。たとえ相手が大地主でも大金持ちでも。それがええかっこしいの、溝育ちのお嬢様のやり方だとしても。  旅館の畳の上の座布団に腰を下ろした途端、一度に今日一日の疲れが出た。真穂と肩を並べ、惚けたように窓の外を眺める。葉をいっぱいに繁らせた木々、それに絡まる蔓草、地を覆う夏草……緑の勢いはすさまじく、逆に息がつまりそうだった。窓の下には川が流れ、涼しげな水音を立てている。蝉の声もする。日は既に西に大きく傾き、見ている間にも、あたりは徐々に濃い茜《あかね》に染まっていく。そんな自然の中に在って、香苗は孤独だった。どこか途方に暮れたような心境で、自分自身、所在ない。明日から自分はここでどうしたらよいのか、そんなことすらもわからずにいた。  修は、もう八木沢地区には近づいてくれるなと言っている。けれども八木沢地区にいかないことには、知りたい過去が見えてこない。そうはいっても、闇雲に誰かに尋ねたところでつまびらかになるでなし、たとえ知っていたとしても、地区では旧家の首藤家のことを、人がたやすく話してくれるかどうかもわからない。それに香苗も真穂も、明らかに首藤の人間の顔をしている。見ればあの自転車の老人のように、すぐさまそれと気がつくだろう。香苗と真穂が再び八木沢地区をうろつけば、当然たちまちのうち修の耳にもはいる。香苗はもう、修の苦りきった顔を見たくはなかった。あの顔を目にすると、生まれてきたこと自体が間違いだったのではないかと後悔したくなる。少なくとも今の修にとっての香苗は、金を払ってでも追い払いたい厄介者でしかない。  香苗はかたわらの真穂に目をやった。この子は誰に似ているのか。時として誰がこの子にのりうつり、真穂の口を借りてものを言うのか。誰かに似ているとかのりうつられるとか言うよりも、誰かの生まれ変わりと言うのが正しいのかもしれない。累が助の生まれ変わりであったように。そう考えれば、真穂が香苗にも、誠治にも、西納の家の誰にもまったく似ていない子供だったことの説明もつく。この子は確かに香苗と誠治の子供だが、その血も遺伝子も完全に飛び越えて、別の人間のそれを持って生まれ出たのかもしれない。だから真穂には新潟の記憶もある。  温泉に浸かり、夕飯を済ませてもまだ、明日からの行動が皆目決まらずにいた。ただ時刻表を無為に眺め続ける。やはり在来線とバスとの乗り継ぎは悪く、そう距離がある訳でもないのにN町までは、片道二時間半を要してしまう。宿の仲居に尋ねると、N町を通るバスが出ていて、それに乗れば一時間半ほどで行くというが、そのバスも日にたったの四本しかない。交通の便がよくなく、時間がかかることに変わりはなかった。 「お客さん、ちょっとよろしいですか?」  襖《ふすま》の外、係の仲居の声がした。どうぞと言って時刻表を閉じ、香苗は自分で襖を開けた。 「面会のお客さまが見えておられるんですけれども」 「私に?」  一瞬修の顔が頭をよぎる。だが、彼が自分に会いにくる訳はないとすぐに思い直した。 「どなたかしら?」香苗は訊いた。 「作田様とおっしゃる方です」  その名前に、香苗の顔が複雑に歪む。何を企んでいるやらわからぬ作田という男を忌む心。どうしてこの旅館に香苗が泊まっているとわかったのかという単純な驚きと疑問。それらが同時に香苗の心に生じ、折り合いのつかぬまま表情に出ていた。 「お部屋にお通ししてもよろしいのでしょうか?」  瞬時ためらった果て、「そうしてください」と香苗は頷いた。 「いやぁ、香苗ちゃん。驚いたよ、あんたがこっちへ来ているっていうんで」  作田は、いつもの日向臭さを感じさせる、人の好さそうな笑顔を見せて、部屋の中へとはいってきた。声も柔らかくて慈愛に満ちている。しかしすべて嘘っぱち。 「私のほうこそ驚きました。どうしてここに泊まっているとおわかりになったんですか?」 「私もちょうど八木沢に帰っていたんだよ。そうしたらあんたたちが来たという話が耳にはいってきて……。いや、それから探した、探した。どうせそうは遠くの旅館に泊まっていないだろうと思ったから、あたりの旅館に片っ端から電話をかけて。ここにたどり着いたのは何軒目だったかな。で、十六代目とはゆっくり話ができたのかい?」  十六代目……首藤家十六代目当主、首藤修。  その問いには答えず香苗は言った。「作田さん、あなた首藤さんにどういう話をなさったんですか? 私は作田さんに首藤の家に何かしてくれと、頼んだ覚えはありませんけれど」 「私はただ、あんたが子連れで離婚して戻ってきているってことを、十六代目に伝えただけだよ。首藤の血を濃く引くあんたと真穂ちゃんが苦労しているんだ、となれば何かしてやりたいと思うのが人情だろう。また、それをしないとなれば、首藤の家の名折れってもんだ」  香苗は顔を歪めた。「そんなの、余計なことです」 「遠慮なんかすることはないんだ。あんた方二人が一生食べていけるぐらいのものを出したって、あちらさんはちっとも痛みゃしないんだから」 「迷惑です。お蔭で私は、まるでお金目当てでやってきたみたいに思われて……。それに首藤さんは、真穂を首藤の直系として家に入れることはできないとか何とか、私には訳のわからないこともおっしゃっていました。あれも作田さんが何かおっしゃったからなんでしょう?」  作田は煙草に火を点けた。煙をひと息吐き出し、それから香苗の顔を見て静かに言う。「真穂ちゃんが首藤の家に戻る、私はそれが一番だと思ったんだ。首藤の家にとっても、それが一等いいことなんだから」 「そんな無体《むたい》な。だって、あちらにはあちらの家族や家庭というものがおありでしょうに」 「ないよ、そんなもの」 「え?」  時枝が家を出ていってしばらくして、修は新しい妻を家に迎えた。が、妻は二年もすると病に斃れ、急逝した。ほどなく次の妻を迎えたが、出産の折に死亡。妻が命を懸けて産んだ子供も、百日と生きることなく死んでしまったという。  聞いていて、香苗は背筋が寒くなる思いがした。それではまるきり累《かさね》の物語……。 「つまり今、首藤の家には家を継ぐべき直系がいないんだわ。だから十六代目は親戚筋の子を、跡継ぎにもらおうと考えている。だけどそんな血の薄い子供をもらうぐらいなら、まさに十六代目の血を引くあんたや真穂ちゃんをあの家に迎えるのが、どう考えたって筋だろうに。ことに真穂ちゃんは、誰が見たって首藤の人間だ。このあたりの村の人間ならばひと目見たらすぐにわかる」  新潟というのは雪深い閉鎖的な土地のようでいて、その実、太古から外に向けて門戸が開かれたところでもあった。外に向けての門戸、それが今の新潟港やその近辺の港町だ。だから新潟には、陸路を通じてより海路を通じて多くの人がはいってきた。むろん古来の大和民族とは明らかに別の民族も。それゆえ新潟にはいくつかの顔がある。俗に新潟美人と言われる色白でおとなしげだが、目鼻立ちがはっきりとして整った顔立ち。山での暮らしを常とする人々の、色黒で大作りなダイナミックな顔立ち。短躯、太り肉《じし》で、鼻も頬の高さも変わらないような、あんパン型の見栄えの悪い顔立ち。西洋人の血を思わせる透明感と、ガラス細工にも似た繊細な造りの優美な顔立ち……。 「香苗ちゃんや十六代目は、俗に言う新潟美人の系統だな。あんたと十六代目はよく似ている」 「でも、人が驚くのは真穂のほうです。作田さんだって初めて真穂を見た時は驚かれた。さっきも真穂は誰が見ても首藤の人間の顔をしているとおっしゃいましたよね? それって、矛盾しませんか?」 「どうして?」 「だって、十六代目に似ているのは私であって、真穂はまた、それとは全然別の顔をしている訳ですから。だったら明らかに首藤の人間の顔をしているのは私であって、真穂ではないということになるんじゃありませんか」 「それはさぁ、香苗ちゃん、十五代目っていうのが婿さんだったからだよ。十六代目は十五代目と同じ系統の顔をしている。つまり本来的には、首藤の家の外の人間の顔なんだ。首藤家代々の主流の顔はまた違う」 「だったら真穂は……」  作田はしっかりと頷いた。「そう、昔ながらの首藤の顔だ。肌が透き通るように白くて目が大きくて、ちょっと腺病質な感じがするぐらいにたおやかで……それが首藤の家筋の顔なんだよ。だからこそ私は真穂ちゃんがあの家に戻るのが筋だと、そう言っているんだ。なにせ見た目にも、あれだけ血を濃く引いているんだから」  真穂こそが首藤の血筋の顔。しかしそれはどこか曖昧で、具体性に乏しかった。誰もが「この人」と名指しするのを避けてはいないか。真穂は首藤家の人間の中でも、とりわけ誰かに似ていてしかるべきだった。でなければ人が顔色を変えたりまでする道理がない。それは時枝と修の知っている人間。作田もまた知っている人間。十五代目は入り婿。となれば……。 「あの、十五代目の奥さんは、真穂のひいおばあちゃんに当たる方は、何というお名前の方なんですか?」  途端に作田の顔に不穏な翳が落ちた。「どうしてそんなことを聞きなさるのかな?」 「その方が、真穂に瓜二つの方にちがいないと思ったからです」  あははと、作田はいきなり弾けたように笑った。「あんたは本当に正直というか、かけひきのない人だな。そう率直にこられたのではこっちも話さない訳にはいかない。──そうだよ。真穂ちゃんは首藤家のひとり娘だった、十五代目の奥方に瓜二つなんだ。名前は、首藤いちのさんといったっけ」 「その方は今?」 「とうの昔に亡くなったよ。もう三十年以上も前になるかねぇ」 「三十年以上前。ちょうど母が東京に出た頃ですね」 「……いや、それよりも」心なしか作田の口調が重たいものになった。「たぶんもっと前のこと。まだママがこっちにいた頃の話だから」 「どうしてお亡くなりになったんですか?」 「事故、だったかな。よく覚えていないよ、なにしろずいぶんと前のことだから。それにしても香苗ちゃん、あんた変わっているね。昔のことなんかより、今のことを考えたらどうさ? 首藤の家は十六代も続いた豪農だよ。なのにこのまま放っておいたら、早晩よその人間にとって代わられちまう。あの家だって、県や国が文化財として残すだなんて馬鹿げたことを、いつ言ってこないとも限らない。そんなことにでもなってごらん、もういじろうったっていじれない。蔵の中には見事な書画骨董の類や、今となってはお宝みたいに扱われる古い道具類もいっぱい眠っているんだ。みすみす他人に渡すことはなかろうに」  それを欲しがっているのはほかでもない、あなた自身ではないのか──、もう少しで香苗の唇から言葉が滑り落ちそうになった。それを遮ったのは、突然の真穂の高らかな笑い声だった。キョキョキョキョという、ホトトギスが鳴くような奇矯な声だった。その人間離れした笑い声に、作田ばかりでなしに香苗もぎょっとして真穂を見る。真穂は、また別の顔になっていた。顔そのものは真穂なのだが、そこに浮かんだ表情が、妙に老熟していていやらしい。気のせいか、顔にも細かな皺が見えた。どう見ても、八歳の子供の顔とは思えない。 「文治《ぶんじ》、相変わらずだねぇ、お前何を企んでる?」  粘り気のある、くぐもった声で真穂が言った。その目は底に意地悪そうな笑みの色を湛えながらも、作田のことを睨みつけている。 「お前の腐った性根は死ぬまで直らないとみえるね。この身の程知らずの小作人の小伜がっ」  一度に作田の顔から血の気が退いた。眼からまでも色が脱け落ちて、顔全体が白く凍りついている。はたで見ていても、身の毛がよだっているのがわかるようだった。作田の身に、次第に震えが走りだす。それを見て真穂は、またキョキョキョキョと、人とも思えぬ声で、さもおかしそうに笑った。笑う時、目を細めるくせにその隙間から、瞳をきらきらさせて相手を見ている。目尻にできたいく本もの皺が、何とも意地悪そうで気色悪い。  弾かれるように、いきなり作田が立ち上がった。刹那、身のバランスを崩してよろけかける。それを見て、真穂は嘲笑うように腹を抱える。 「祟りだな」作田は波立つ声で、半ば呟くように、半ば吐き捨てるように言った。「いちのさんの怨念が、この子にのりうつっている」 「作田さん──」香苗は座ったまま、作田を見上げた。  作田は色の脱けたままの眼をして、香苗を見下ろして言った。「悪いがこの子は化け物だ。早いところ悪霊祓いをしてもらったほうがいい。憑いているのがいちのさんじゃ……こりゃあ半端じゃない」  それだけ言うと、ここへわざわざ香苗を訪ねてきた目的も忘れ果てたかのように、作田は部屋を飛び出していった。その顔は、部屋にはいってきた時とはまるで別人、ひび割れたコンクリートのように強張《こわば》り、崩れかけていた。  作田が大慌てで逃げ出していったのを目にして、真穂は快哉を叫ぶように、また声を立ててキョキョキョキョキョと笑った。 「真穂……。真穂ちゃん、しっかりして。いやよ、そんな声出しちゃ。ねえ、真穂ちゃん!」  真穂はそれからしばらくの間、何かに憑かれたように笑い続けていた。      18  翌日から自分が何をすべきかに、もう香苗は迷うことはなかった。誰に過去の話を問えばよいのか、そんなことを考える必要など既にない。香苗の手元には、過去の出来事を最もよく承知している当事者、いちのがいる。なすべきは、真穂とともに八木沢地区へ行くこと。二人して八木沢地区をまわって歩けば、誰に問わずとも真穂の中のいちのが、必ず香苗に何かを教えてくれる。  翌日、香苗はレンタカーを借りた。O町にいた頃は必要に迫られて軽自動車を運転していたが、東京に戻ってきてからというものハンドルを握っていない。東京の交通量の激しさ、主要道路をはずれた道の狭さ、わかりづらさ、人の多さ……茨城の田舎道を、わが道を行くとばかりに車を転がすのとは訳が違う。道を知らないぶん不安はある。が、N町から柚木温泉までは、前の日、修の車に乗せてもらって道は見ている。それに真穂を連れてまわるには、車のほうが人目につきづらいぶん都合がいい。作田が早速宿まで訪ねてきたことからもわかるように、田舎には目には見えない目と耳と口がある。それは香苗もO町で、いやというほど経験していた。  身分証明の代わりにと、免許証を持ってきていたのが幸いした。香苗は中でも小さい一・五リッターカーと地図を借り、N町八木沢地区へ向かって走りだした。車が走りだすと、真穂は食い入るように表の景色を眺めていた。この子には、懐かしいふるさとの風景なのかもしれない。昨日の晩は、正直香苗も容易に震えが止まらなかった。あの後、真穂はひとしきりおかしな声を立てて笑ったすえに、ようやく元に戻った。真穂は自分の喋ったことを覚えていない訳ではない。むしろこの子は無邪気に、自然と自分の口からこぼれ出る言葉に大人たちが戦々恐々となることを、面白がっている。  八木沢地区にはいり、あたりを車でぐるぐるめぐる。やはり真穂には、首藤の家のあるあたりが一番懐かしく、心揺さぶられる場所のようだった。その近くへくると、真穂はほとんど窓ガラスにへばりつくようにして見入っている。敷地の後ろにある裏山の方へと車をまわす。恐らくは、ここも首藤の土地になるのだろう。 「とめて。ここ、とめてちょうだい」  傍らで、不意に真穂の嗄れた声がした。ぎくっとなってブレーキを踏む。シフトレバーをパーキングに入れ、サイドブレーキまで引いてから、おもむろに真穂の方を見やる。声から察していたように、案の定、真穂は真穂の顔をしていなかった。まるで助手席に真穂によく似た小さな老婆を乗せているよう……慄然となりながらも、香苗は次の言葉を待つ。が、真穂は、黙って車の外へと滑り出た。香苗も慌ててそれに続く。裏山を感慨深げに見上げると、やおら真穂は呻き声を漏らした。見ると頬を涙が伝わっている。苦しげな真穂の顔。真穂のからだが、おこりのように小さく波打ち始めていた。 「真穂、大丈夫?」思わず香苗は声をかけた。 「ここ、私の山……」真穂が、いや、いちのが呟いた。  遠目には、田んぼに突き出たぼた山のように見える。しかし間近に見てみると思いのほか大きな山で、これに登るとなると、結構な骨折り仕事かもしれない。今は一面濃い緑に覆われていて美しい。 「痛かったよぉ」不意に真穂は顔を歪めてそう言うと、いきなり自分のからだを、ゴムまりみたいに地面に叩きつけた。 「真穂!」驚いて、真穂に駆け寄り手を伸ばす。 「こんなものじゃない。もっともっと痛かったよぉ」真穂は香苗の手を撥ねのけて、再び自分のからだを投げ出すように大地に叩きつけた。 「痛くて痛くてたまらなかったよぉ」 「真穂、もうやめて!」  その様子を目にして、香苗にもようやく大久保のマンションの部屋で何が起こっていたかが見えた。玄関から真穂がサッカーボールのように転げ出てきたという悦子の話は、まさに今の姿と重なる。真穂には指一本触れていないという時枝の言葉もまた真実。真穂は自分で自分のからだを、壁や家具に打ちつけていたのだ。 「真穂……」  香苗は真穂がこれ以上自分を痛めつけないようにと、両腕で抱え込むようにそのからだを抱き締めた。そのうちに、真穂は徐々に落ち着いてきた。すると今度は香苗の腕の中で、何事かを呟くようにぼそぼそ語り始めた。  昔話だった。三十二年前の昔話。  今、香苗が目の前にしているぼた山に、いつもいちのは人には姿を見られぬよう、一人でこっそりはいっていた。この山はいわば宝の山、春先にはわらびだのぜんまいだのの山菜が採れ、秋口にはよい舞茸が採れる。ここは首藤家所有の山だが、誰かがそれを狙って勝手にはいらないとも限らない。常に姿を見られぬように気を配ったのは、後を尾けられ、舞茸や山菜の群生地を知られてしまわないための用心だった。茸や山菜の採取場所は秘密にしておくもの、でないと人に根こそぎ持っていかれて翌年以降生えなくなってしまう。またよい場所を見つけるのはその人の腕、山から得たものは得た人の財産、山の幸とはそういうものだ。  春先のこと、いちのはいつものように一人で密かに山にはいった。ちょうどよい頃合いのぜんまいがたくさん出ていたことに気をよくし、ついつい山菜摘みに精を出す。ふと人の気配がして振り返ると、嫁の時枝が立っていた。二人きりで話したいことがあって追ってきたのだと、怖い顔をして時枝は言った。話はすぐに言い争いとなり、やがて激しい罵り合いにと変わっていった。挙げ句に時枝はいきなりいちのに掴みかかってくると、その身を崖下へと突き落とした。  険しい斜面から転げ落ち、いちのは胸と腹を強打した。内臓が破裂したような熱い痛みが身の内で弾けた。しかし時枝は苦しむいちのを上から冷たい目をして眺めたあと、置き去りにしたまま行ってしまった。いったいどのぐらいの間痛みに悶えていただろう。助けを呼ぼうにも声が出ない。しかも山の中の秘密の場所、仮に誰かが探しにきても、容易に見つかるところではない。だんだんと遠のいていく意識の中で、いちのは時枝を呪った。たとえ時枝が地の果てまで逃げようとも、この恨み晴らさでおくものかと心に誓った。  悪い予感が、見事に的中したという感じだった。やはり過去に、時枝は人を殺していた。それも姑、香苗にとっては祖母に当たる人間だ。時枝はそれがゆえに故郷を捨て、香苗を抱えて東京へと逃げてきたのだ。  時枝が人を殺したという衝撃と、胸締めつけられるような思いに香苗はわなないた。山の中、たった一人で苦痛に喘ぎながら死を迎えたいちののことは哀れに思う。さぞやつらかったろうと同情もする。だが、それ以上に香苗はそこまでせざるを得なかった時枝に漠とした共感を覚え、心揺さぶられていた。西納の家にいた時、香苗も姑のちずのあまりの仕打ちに、頭にのぼった血がなかなか冷めやらず、いっそちずを殺してしまいたいと、本気で思いつめた瞬間が幾度かあった。田舎の旧家、その息苦しさと目には見えない圧力。加えてわが身が貶《おとし》められたような屈辱に、神経がどうかなっていたのだと思う。時枝の苦しさは、香苗の苦しさと通じる。 「痛かったよぉ……」不意に当時の痛みを思い出したというように、また真穂が呻いた。 「わかった、もうわかったから」香苗は、宥《なだ》めるように真穂の背をさすった。「あなたの痛みはよくわかったから」  真穂が痛かったと呪いの言葉を吐きながら身を打ちつける様は、時枝には見るに堪えない光景だったろう。あまりのことに時枝は声を上げ、止めようと手を伸ばし、自分の耳を手で覆う。孫に過去の罪を暴きたてられ、時枝は身を苛《さいな》まれるような思いを味わっていたのに相違ない。虐待はあった。ただし、加害者は時枝ではなく真穂。 「さあ、もう行きましょう」  香苗は真穂の頭と背中とを撫で、車へと誘った。その真穂の口から、嗄れた憎々しげな呟きが漏れる。「時枝……あの女……」  この子はいったい誰なのか、香苗にもふとわからなくなりかける。この子はわが子、娘の真穂──、自分自身に言い聞かせる。時にいちのが身を乗っ取り、道具のように扱い痛めつける、そういうことなのだ。真穂もまた被害者。しかし、生まれながらにいちのに生き写しというのはどういうことか。誠治の血を無視し、香苗や時枝の血も飛び越え、いちのの血だけがまざまざと真穂に甦った。これが因縁、因果応報ということか。  目には見えない因縁の糸が、罠のように自分の周りに張り巡《めぐ》らされていたということに、香苗は初めて気がついた。修は、過去など知っても仕方がないし、知らないほうがいいこともある、と言った。時枝はあくまでも過去に口を閉ざそうとした。確かにこうして追い求めてみると、謎は解けても重たさばかりが募り、悔いに近い想いが気持ちを翳らせる。半ば自分を慰めるように、だけどそうするより仕方がなかったのだと、胸の内で香苗は呟く。真穂の中にいちのという人間がいる以上、過去を無視することなどできはしない。  香苗は気を取り直すように姿勢を正し、ハンドルを握り直した。けれども、行く手に光は見出せなかった。      19  大久保の家に帰ると、ドアを開けた途端に時枝の厳しい顔が香苗を出迎えた。長野の友だちのところへ行ったのではないことは既に承知、暗雲のかかったような時枝の顔がそれを告げている。おおかた作田が何らかの形でご注進に及んだのだろう。どのみちこのことについては、時枝と話し合わなければならないと思っていた。だから真穂が寝つくのを待って、問い質《ただ》される前にN町八木沢地区へ行ってきたことを時枝に話した。そこでどんな真穂を目にしたかも。 「そう、知ってしまったの……」力なく時枝は呟いた。その顔が、翳に溶けかかったように黒くくすんでいる。 「正直驚いた。過去に何があったかもさることながら、真穂がそんな因縁を抱えているってことに」 「私のせいだよ」時枝は言った。「あの人のことだ。いつか私を追いかけてくる。このまま無事に済む訳がない。いつも私は思っていた。だけどまさかこんな形であんたの娘に、あの人が乗っかってくるとは思わなかった」  修は作田のことを村の鼻つまみ者だったと言った。ある意味ではいちのも同じだった。病的な虚言癖と弱いものいじめ、いちのは相手が逃げ場のない人間であればあるほど、執拗な嫌がらせを重ねた。いちのは土地の豪農、首藤家の一人娘だ。村人にしてみれば、あからさまに知らん顔をすることもできなければ作田のように鼻つまみ者扱いすることもできない。それゆえ表面的には下にも置かぬ扱いをしていたが、内心誰もがいちのを忌避し、敬遠していた。いちのさんと関わり合うとろくなことにならない──。  どこそこの娘は手癖が悪く、家に手伝いにくると必ずものがなくなる、どこそこの女房はもとは廓の安女郎だった……いちのはまるで自分がその目で見てきたように、ありもしない作り話をまことしやかにして聞かせる。話というのはおかしなものだ、それがもとはいちのの口から出たいつもの作り話とわかっているのに、いつしか話が勝手に一人歩きをし、やがては尾ひれがついて膨れ上がる。 「それで縁談が壊れたり、苦にするあまり病気になったり……いちのさんて人は、決まって首藤に文句が言えない立場の人間を標的にした。あの人には、みんな迷惑してたんだ。私もずいぶんいろいろ言われたけど」  しかし時枝は、大飯喰らいの役立たずと言われようが、嫁いできた時点で傷ものだったと言われようが、黙ってそれに耐え続けた。時枝の一番下の弟の信光は出来がよく、本人も医者になりたがっていたし、両親もこの弟には期待をかけていた。信光が医大へ進む学費は、首藤の家が出してくれる約束になっていた。けれどもいちのはこれが豪農の一人娘かと呆れるほどの吝嗇《りんしよく》家で、米櫃にも鍵をかけ、日に一合たりとも余分に米を出そうとはしない。そんないちのの人柄を知るにつけ、これで本当に信光の学費を出してもらえるのかと、次第に時枝も危惧し始めていた。やがてそれが現実になった。 「そのやり方が汚かった。信光の不品行の噂やよからぬ行状をでっち上げて、通っていた高校を放校になるように仕組んだんだ。高等学校を追い出されたんじゃ、とても医大になんか進めやしない。医大へ行かないとなれば、金を出す必要もない。当然約束は反古《ほご》さ」 「ひどい」香苗は顔を曇らせた。 「いちのさんていうのは、そういう人なんだよ」 「それでその信光っていう、おかあさんの弟は?」 「死んだよ」吐き捨てるように時枝は言った。  大雪の晩だった。荒れて慣れない酒を飲んだ信光は、田んぼの畦道の溝に落っこちて、そのままそこで眠り込んでしまった。家族は戻らぬ信光を探しに出た。あたりは一面雪景色、からだの上にも雪が積もり、夜目では見つけることができなかった。翌日昼過ぎに見つけだした時には、信光は既に凍え死んでいた。 「それですっかり気落ちした母は、からだまで悪くしてしまってね」  いちのは信光を、酒で命を落とした大馬鹿者と、笑い話の種にした。そんなたわけが医者になろうとしたというのだから笑わせる──。許せないと思った。 「あんたは、新潟は思ったよりも閉塞的な感じがしなかったと言ったけど、それは夏に行ったせいだよ。冬になってごらんよ。あたりじゅう雪、雪、雪……。積もった雪に埋もれて、窒息してしまいそうになる。そこで仇みたいな姑と、来る日も来る日も顔突き合わせているのは地獄だよ。ショックで寝ついた母も春を待たず、信光のあとを追うみたいにしてあの世へ行ってしまった。私はもう、我慢の限界にきていたんだ」  今日こそ胸に積もったいっさいの恨みを、残らずいちのに向かって吐き出すのだ、そんな思いを内に控え、山にはいったいちのを追った。一度あとを尾けたことがあったから、場所はだいたいわかっていた。 「最初から、殺すつもりじゃなかったんだ。……いや、殺すつもりだったのかもしれない。自分でもそこのところがはっきりしない。だけど結果的には、あの人を崖から突き落としてしまった。まだ息があるあの人を置き去りにして、何喰わぬ顔をして一人家に戻ってきた」 「それで東京に逃げてきたのね。だけどよく──」 「警察に捕まらなかったものね、と言いたいんだろ?」  香苗は黙って頷いた。 「だっていちのさんのことは、事故ということで決着したんだもの。山で勝手に足を滑らせたんだって」 「え?」  口には出なくても、誰かがいちのを殺したことは、村の人間みんながわかっていたことだ。中でも嫁の時枝を、最も疑がっていただろう。けれども村人は、調べに対して口を閉ざした。誰もが一度はいちのに痛い目に遭わされている。いちのとの間にまったくいざこざがなかった人間は、いなかったと言ってよい。いわば誰もが容疑者、同じ立場に置かれていた。下手なことを口にして、逆に火の粉が自分に降りかかるのはご免。山菜の群生地を知られたくないばっかりに、いちのは一人で山にはいった。それゆえ足を滑らせ崖下に落ちても、助けを求めることもできなかった。あれは不幸な事故。うまいことに厄介者は死んでくれたのだ、ならばそれでよいではないか──。 「だったら、逃げることなんかなかったのに」 「そうはいかないよ。周囲の目があるし、亭主は明らかに気がついていた。警察に私を突き出すまではしなくても、まさか母親を殺した女と、その先も夫婦としてやっていけやしないだろう?」  だから時枝は香苗を連れて家を出た。実家の山上家とも縁を切った。そうしなければこの先山上家の人間が、村で暮らしていきづらくなると思った。村から完璧に自分の存在を消し去ってしまうことが、村の人間に事件を忘れさせる唯一の方法だった。 「でも、新潟から一人、私を追いかけてきた人間がいた。鬱陶しい過去が、うるさく纏わりつくみたいにね」  聞かなくても、それが誰かはわかっていた。八木沢地区のもう一人の厄介者、作田文治。 「あいつはね、見ていたんだよ。今で言う、事件の目撃者ってやつだったんだ」      20  途中一度、真穂の様子を見に行った。少し疲れたのか、真穂はよく寝ていた。旅に疲れたのではなく、別の人間をもう一人抱え込んでいることに、からだがくたびれているのかもしれない。  ダイニングに戻って時枝に尋ねる。「お茶でも淹れようか?」 「お酒のほうがいいよ。水割りか何か」 「そうね、お酒のほうがいいわね」  棚からウィスキーの瓶を出す。夏の夜、古くなったクーラーのモーターの音だけが響いている。  作田は、八木沢地区でも貧しい農家の三男だった。彼に割り当てられた土地は蓮根畑。それも猫の額のような狭い沼地でしかない。作田は子供の頃からその沼で、いつも腰まで泥水に浸かって蓮根を掘っていた。日々泥水に浸かる暮らしを続けていても、その畑の広さではたいした収入にもならない。大きな田畑を抱える首藤の家では、そんな作田を折々仕事に駆り出した。 「年中ぴいぴいしている痩せ蛙みたいな作田を、いい手間賃を弾むようなことを言って駆り出すんだ。そのくせいざとなると、涙銭か小遣い銭程度の金しか渡さない、いつものいちのさんのやり方さ」 「それはいちのさんが無類の吝嗇家だったから?」 「それもあるけど、たぶん楽しんで見ていたんだと思うよ。毎度毎度金に釣られてのこのこやってくるもの欲しそうな作田の顔や、涙銭に肩を落として帰る作田の後ろ姿を。なにせ底意地の悪い人だったからね、あの人は」  その日作田は偶然に、いちのが山菜を採りに裏山にはいっていくのを見かけた。しめたとばかりに足音を殺し、あとを尾ける。貧農の小伜と見くびられ、これまでさんざん煮え湯を飲まされてきた。尾けて行けば、いちのが山の宝と言っている山菜の群生地がわかる。それを突き止め、翌年から山菜が生えてこないぐらいに根こそぎにしてやるのだ──。ところが低木の茂みに身を潜めて様子をうかがっていると、思いもしなかった事態が展開した。いちのを追うように山にはいってきた時枝といちのの激しい罵り合い、その果ての事件。 「それでも作田は黙っていた。警察に喋ろうが誰に喋ろうが、自分の得にはならないものね。ただ私には、自分は知っているってことは匂わせてたね。それもあって、私は急いで村を出ることにしたんだよ」  行くあてはなかった。ただ漠然と、東京へ行けば何とかなるのではないかと考えた。東京なら、人込みに身を紛らわせてしまうこともできると思った。 「それで新宿にきたの……」 「新宿しか知らなかったんだよ。当時大久保にはまだ木賃宿みたいな安宿や下宿屋みたいな木造のアパートがたくさんあって……だから私は新宿で働きながら、大久保で暮らすことにしたんだ」  ところが、それから三ヵ月もしないうちに、時枝を追って作田がきた。アパートを訪ねてきた作田の顔を見た時は、現実に目の前が暗くなった。ようやく振り切ったと思った過去が、墓場から甦って追いついてきたような心地。  それからが、作田にたかられる生活の始まりだった。作田はまるでヒモのように、時枝が稼いだ金を巻き上げる。作田に金を渡しながら子供を育て、自分も食べていくためには、より実入りのいい稼業《しようばい》、より実入りのいい稼業を、なりふり構わず選んでいくより仕方がなかった。 「だけどあいつの要求は際限がなかった。何年かこの街で暮らすうち、作田はすっかりここの水に馴染んで、金の作り方も覚えていった。自分も泥水ではさんざんいやな思いをしてきたくせに、あいつは泥水かぶるような商売を、今度は私にやらせるようになったんだ」  マッサージ嬢の派遣、キャッチバー、デートクラブ、闇金融……店の名義はみんな時枝だったし、実質的に運営していたのも時枝だ。しかし上がりのほとんどは、作田の懐《ふところ》にはいっていた。  ここでも香苗の認識には錯誤があった。使われていたのは作田ではなく時枝。いつか春山が、時枝は儲けた金をどうしたのだろう、と首を傾げていたが、荒稼ぎしていたようでいて時枝の懐具合がよかったことなど、これまで一度もなかったということだ。 「十五年間は、あいつに吸い上げられっ放しだった」時枝は言った。「つまり時効が来るまではさ。結果、私の手元に残ったのは、今のあの喫茶店ひとつだけ」  ずっと賃貸マンションに住み続けてきたのも、ひとつにはまとまった金がなかったからだし、いざという時には後先構わず逃げ出さなくてはならなくなるかもしれないという思いがあったからだ。 「知らなかった……」 「そりゃ知らなかっただろうよ。あんたにはこんなこと、一生知らせるつもりはなかったもの」  作田の望みは、故郷の八木沢地区に首藤の家にも負けない大きな家を建てること。土地での発言権を持ち、実権を握ること。ずっと故郷の村で冷飯を喰わされ続け、人から歯牙にもかけられずにきた貧農の三男坊にとっては、それが一等胸のすくことだったのかもしれない。 「大きな家も建てた。今じゃ向こうで商売もやっている。あいつの望みはだいたいかなったという訳よ」時枝は水割りで口を湿らせた。「だけど手にはいらないものもある。ここに来て作田もそのことに気がつき始めたんだろう」  金では手に入れられないもの、それは歴史だ。首藤の家と作田の家とでは、歴史も格も違う。いかに大きな家を建てようとも、何百年も生き続けていた家とでは勝負にならないし、蔵を建てても入れるものがない。 「結局、自分の本当に欲しいものは首藤の家そのものだったということに気がついたんだよ。道具や家といった形ある歴史、それに血筋という目には見えない歴史」 「悪いことにそこに私が現れて、おまけにいちのさんそっくりの真穂を見せてしまったのね」  今、首藤の家には跡取りがいない。そこに真穂がはいり込む余地があると、恐らく作田は踏んだのだろう。 「あの男が最終的にしたいと思っているのは、血消《ちげ》るということなのかもしれないね」 「血消る?」 「戦国武将のよくしていたことよ。よい家柄にはいり込んで家を乗っ取って、やがては自分がその姓を名乗り、家系図にもはいり込む。そんなふうにして卑しい自分の出自を消してしまうということね」  それが長年踏みつけにされてきた男の夢であり復讐なのかもしれない。理解はできる。だからと言って許すことはできない。自分の欲望のため、長年時枝を喰いものにし続けたこと、今度は真穂を喰いものにしようとしていること。紳士ぶったその顔が余計に憎い。  過去、時枝が香苗に対して強い愛着を抱き得なかったのは、香苗が時枝の子供であると同時にいちのの血を引く子でもあったからだ。殺さずにはいられなかったほど憎い女の血を引いているということもある。それ以上に、この子の祖母を殺したということを、香苗の顔を見るたびにある種の負い目を持って思い出さざるを得ない。だから逆にどこか開き直ったようにしていなくては、香苗を育てながらやっていけなかった。加えて香苗に対して強い愛着を持てば、それは時枝の弱点になる。ちょっとでも弱みを見せれば、すぐに作田はつけ込んでくる。  時枝のふてぶてしさは、この街で生きていくうちに身につけたしたたかさからくるものではなく、ぎりぎりのところにまで追い込まれた人間が肚を括った時に見せるふてぶてしさだった。哀しき傀儡《かいらい》、今、香苗が知った母の実像は、そう呼ぶにふさわしい。実の娘に喰えない女と思われても、言い訳することすら許されなかった時枝──。自然と目の縁が熱くなり、目の前を霞ませるように涙が滲んでくる。今夜は咽喉の渇きに促されて、いったい何杯水割りを飲んだことだろう。けれども少しも酔いはまわってこない。夏の夜は、はや白々と明けていく。 「浅野|内匠頭《たくみのかみ》とおんなじだよ」自らを嗤うような面持ちをして時枝は言った。「殿、ご短慮でしたな、ってやつ。私の我慢が足りなかったばっかりに、あんたにも真穂ちゃんにも、結局ツケを負わせてる」 「そんなこと……」 「初めて真穂ちゃんを見た時は、心臓が潰れるかと思うぐらいに驚いた。真穂ちゃんはいちのさんに生き写し。歳の差があるだろうにと思うかもしれないけど、いちのさんというのは妖怪みたいな人でね、歳がいっても見た目には、童女みたいな無垢さのあった人なのよ。おまけに真穂ちゃんも左利き。いちのさんと同じだった」 「左利き──、いちのさんも」思わず香苗は目を見開いた。  時枝も、のりうつった相手が真穂でなければ、再びいちのと対決していたかもしれない。けれどもそれが自分の孫娘では、罵るいちのを黙らせようと、平手で頬を張ることさえできない。逃げ場のない愛憎の板挟み、とことん時枝を苦しめようとしている。それがいちのの策略だとすれば、やはりいちのというのは恐ろしい。 「ごめんなさい。私、何も知らずに誤解してた」 「馬鹿だね。悪いのはこの私だって言った。すべての原因は、この私が作ったんだから」  三十年余りもたった二人きりの母娘として過ごしながら、ここにきてはじめてわかり合えた。感動に似た思いが香苗の胸にひろがる。しかし、抱え込んでしまっている問題があまりに大きすぎた。時枝と香苗は一緒に暮らせる。二人だけなら、これから先はうまくやっていけるだろう。けれども時枝と真穂は一緒に暮らせない。いちのが真穂に宿っている以上は仇同士、ともに過ごせばさらなる不幸が二人を見舞う。だとすれば、香苗は真穂を伴《ともな》って、時枝の許から去ってゆくより仕方がない。ようやくにして母の胸の痛み、苦しみがわかり、心通じ合ったというのに。 「真穂からいちのさんを追い出す方法はないのかしら……」香苗は言った。 「たぶん無理だろうね。あの人は、生きていた時から人並みはずれて執念深かった」  作田が真穂なら首藤の家に押し込めると思った理由のひとつには、当時村の人間誰しもが、いちのに対して抱いていた畏怖に近い心情というものがあった。村には陰で首藤の家のことを、「物持ち筋」と呼ぶ者もいた。物持ち筋、家に狐だの蛇だのの霊が憑いた家。物持ち筋は不思議と栄える。また、物持ち筋の人間は、家に憑いている霊を使役できるから、下手に歯向かったりすれば反対に、訳のわからない業病や災難をもたらされたりと、ひどいしっぺ返しを受けることになる。いちのは、その象徴のような女だった。見た目には、いちのはなかなか歳をとらない。何故かいちのに命令されると身が竦んだようになって、誰も面と向かって文句が言えなくなる。いちのがただの女ならば、いかに相手が豪農の娘であれ、誰一人として逆らえなかったということはないだろう。病的な虚言癖があり、底意地が悪いというだけでなく、人はいちのの性分の底に、動物の霊、憑き物を見ていた。そのいちのの生まれ変わりのような真穂を連れていけば、当然往時を知る人は震え上がる。いちのの再来、化け物の甦り。真穂の後見人のような立場に納まれば、作田に対してもケチがつけられなくなる。作田の目には、真穂が恰好の傀儡と映ったに相違ない。よもや本当にいちのがその身にのりうつっているとも思わずに。  時枝の口からいちのの話を聞くうちに、香苗は次第に自分の血が、ぬくもりを失い冷えていくような心地がした。真穂の虚言癖、左利き、O町の小学校であった小動物に対する虐待……認めたくはない。でも、確かに似ている。動物霊がとり憑いていると恐れられていたいちのが真穂の中にいると思うと、母親でありながら香苗は、怖気をふるわずにはいられなかった。 「それじゃ真穂は、一生いちのさんを抱え続けて生きていくことになるの?」ひとりでに低くか細くなる声で香苗は言った。 「いや」いくぶん目を伏せ気味にしながら、時枝は首を横に振った。「あの人の出てきた目的は私にある。私が死ねば、たぶんあの人も消えるだろう。真穂ちゃんのことを考えるなら、私は早くあの世へいったほうがいいんだ」 「おかあさん、そんなことを言わないで」 「本当ならばあの人に殺されてやるのが一番なのかもしれない。だけど、そういう訳にはいかない。あの人が私を殺すということは、真穂ちゃんが私を殺すということだ。真穂ちゃんにそんな恐ろしい罪を背負わせたくはないよ。そんな罪を背負うのは、私だけで充分だ」 「いずれにしても私たち、これから一緒には暮らせないということね」 「そういうことになるんだろうね。このまま一緒に暮らしていたら、いつかきっと何かが起きる」  自分でも予想もしていなかったことだったが、香苗の口から不意に嗚咽《おえつ》が漏れた。一度声を上げて泣き出してしまうと、発作のように身の内側からしゃくり上げてきて、涙と震えが止まらない。  時枝がぽんぽん、と香苗の背中を叩き、はは、と笑った。「知らなかった、あんた、泣き上戸だったんだ」 「おかあさんたら……」  完全に日がのぼり、あたりが明るくなってしまってから、二人はそれぞれに自分の寝床についた。真穂は深い眠りの中にある。眠っている時だけが平和──、香苗は真穂がまだ赤ん坊だった頃に思ったことを、久し振りに思い出していた。      21  真穂の夏休みも終わろうかという頃、香苗は真穂を連れて「大久保東レジデンス」を出た。移り住んだのは2DKのアパート、ただし大久保からは離れなかった。真穂は新しい学校に馴染んだばかり、また学校を替わりたくはなかったし、同じ大久保にいれば、暇を見つけて時枝の様子を見に行ける。当分は時枝から経済的な援助を受けないことにはやっていけないようなありさまだ。しかし、今度はもういつまでも時枝に甘え続けるつもりはなかった。引っ越して間もなく、香苗も仕事を始めた。最後の手段と考えていたことだが、春山のところへ行って頭を下げ、彼の事務所で事務員として雇い入れてもらったのだ。それを知って時枝は渋い顔を見せた。春山も、親子代々大久保の街で喰ってきた人間だ。その種の人間を、時枝は信用していない。喰うか喰われるか、それがこの街での長年にわたる時枝の日常だったのだろう。  引っ越すことに決めたと告げると、真穂はおばあちゃんと一緒のほうがよかったのにと、不満げに頬を膨らませた。あどけなささえ感じさせるその顔が、逆に香苗を寒々とした気持ちにする。この子は、自分の面《おもて》にいちのが出ている時の記憶がない訳ではない。自分が抵抗できない時枝を責め苛《さいな》んでいたことも、きっと承知している。恐らく真穂にとってはそれが、楽しいお遊びだったのだ。自分の身を打ちつけ傷めても、脅え戦《おのの》く時枝の姿を見るのが面白かった。いや、それは真穂ではなくいちのの性分、底意地の悪さ……つい冷やかな目を真穂に向けてしまいがちになる自分の心を香苗は戒める。時枝と離れて暮らすうち、真穂の中のいちのが完全に消えてしまわないまでも、眠りについてくれたらよいのだがと、香苗はそれを願わずにはいられなかった。  仕事をするに当たってひとつ心配したのは、春山が作田と組んだ仕事をしてはいないか、ということだった。そのことは、勤める前に確かめた。春山は、香苗に対して顔を顰《しか》めて首を横に振った。 「あのおやじ、根っから小狡いからな。信用ならないことこのうえねえ。そのうえ妙に慎重で、人には切れそうな綱を渡らせても、自分じゃ絶対に渡ろうとしない。──やめたよ。あのおやじに一枚噛ませたら、こっちが割りを喰うだけのことだ」  春山は、まさに作田という人間を見抜いたようなことを言っていた。この街で喰っている人間は、金ばかりにでなく、人間に対しても鼻が利く。  香苗が仕事を始めたので、学校から帰ってもしばらく真穂は一人ぼっちだ。それも仕方がない。大久保だけでなく世の中には、それを余儀なくされている子供たちが大勢いる。真穂にも我慢してもらわなければならなかった。  時枝のところを出てから、ほぼ平穏な二ヵ月が過ぎた。時枝とは時々会って話をしている。昼休みに外で待ち合わせて、昼食をともにすることもある。時枝は香苗に、そのうち自分の喫茶店をやったらいいと言う。今は赤井と里美の二人に預けたばかりですぐに返せとは言いづらいが、折を見て二人に話をするし、別の活路も見つけてやるようにする。そうしたら今度は香苗が好きなように店の体裁を整えて、やりたいように切り盛りしていけばいい。何でも私が教えてやるから──。  時枝の言葉で、香苗も先に希望の光が見えたような気持ちになった。店を一軒持っていたら、真穂を育てながら食べていくぐらいのことはできるだろう。真穂を私立の大学に入れてやることだってできる。恐ろしい因縁を背負った子供かもしれないが、真穂は香苗がお胎《なか》を痛めて産んだ子だ。  春山の事務所は、正式には「ハル・エンタープライズ」という。そこでの香苗の仕事は五時半までだ。旧友ということで、こもごも融通をきかせてもらっている。本当は、パソコンが扱えないようでは事務には雇ってもらえないところだったのだが、それもおいおい勉強してくれればいいやと、春山は半ば致し方なさそうに頭を掻いて譲歩してくれた。だから香苗はここに勤め始めてから、まるで給料をもらいながらパソコンの勉強をさせてもらっているようなものだった。慣れないパソコンに向かっていると、からだの芯まで疲れが滲み込んでくるが、そのぶん時間が早く過ぎていくのがよい。季節は既に秋に移行している。その日も夢中になってパソコンに向かっていると、気づいた時には窓の外が薄暗くなっていた。 「山上さん、お電話です」  竹内好美という名前のアルバイトの女子大生が、電話を受けて香苗に言った。アルバイトとはいえパソコンの扱いは、香苗などとはくらべものにならないぐらいに長けている。 「三番。荻野さんという方からです」  荻野と言われても一瞬ピンとこなかった。が、すぐに「大久保東レジデンス」の管理人だと思い至った。 「もしもし、山上です。いつも母が何かとお世話になりまして」受話器を取って香苗は言った。 「あ、香苗さん」  ひと声耳にしただけで、荻野の声に切羽つまったものがあるのがわかった。唐突に、しかも一気にいやな予感が胸にひろがる。 「驚かないでくださいよ。山上さんが、お母さんが、ベランダから下に転落して、今さっき救急車で病院へ運ばれたんです」  人は悪い報せを告げる時に、決まって「驚くな」と前置きする。その言葉自体が既に不吉だった。転落、救急車、病院……頭の中でさまざまな思いと時枝の顔とが交錯して、思考がまったくまとまらない。香苗は、一瞬のうちに完全に動顛しきっていた。 「病院……」香苗は箍《たが》がはずれたようになった頭を抱えたままで呟いた。「どこの?……」 「新宿第一救急病院です。香苗さん、できるだけ早くいってあげたほうがいい」 「それで母の、母の様子は?」 「──あたしには何とも。しかし四階からじかに下のコンクリに落ちた訳だから」  荻野ははっきりとは言わない。けれどもその口調から、決して楽観できる状況でないことは察しがついた。 「だけどベランダから落ちるなんて……どうして」 「それがあたしにもわからないんですよ。女同士、何か言い争うような声を聞いたというようなことを言う人もいるけど、テレビの音かもしれないとも言っているし」  女同士言い争うような声。灰色どころではない。たちまちにして香苗の胸に、真っ黒な雲がいっぱいにひろがる。 「わかりました。すぐに病院へ行くようにします」  そう言って電話を切ると、香苗は大慌てで事務所を飛び出した。ビルを出てすぐにジャケットを着忘れてきたことに気がついたが、取りに戻る気にはなれなかった。下の通りからタクシーを拾って、すぐに車に乗り込む。  時枝がベランダから落ちた。住み慣れた部屋の、ちゃんと手摺りのあるベランダから。転落……いちのと同じ痛み、苦しみ。香苗は時計を見た。五時十分前。当然真穂は学校から帰ってきている。時枝が落ちたのが今から三十分前だとしても、一時間前だとしても、どちらでも学校が終わっている時刻であることに変わりはない。真穂には、おばあちゃんのマンションへ行ってはいけないと言ってある。時枝にも、真穂が行っても中には入れないでくれと頼んである。しかし二人がそれを、百パーセント守るかどうかはわからない。ことに真穂は。頭がくらくらとした。  香苗はバッグから電話を取り出し、自分のアパートに電話を入れてみた。四回ばかりコール音がして、「もしもし」と真穂が出た。 「あ、真穂? おかあさんだけど」 「ああ、おかあさん。どうしたの?」 「真穂、今日学校から帰ってきてから、おばあちゃんのところへ行った?」 「ううん、行かないよ」 「ううん」と言う前に、一拍間があったような気がした。加えて声の妙な素っ気なさが、かえって気にかかる。 「本当?」 「本当だよ」 「本当に本当ね」 「本当だって。──どうしてそんなこと訊くの?」 「おばあちゃんね、怪我をしたのよ。それでおかあさん、今おばあちゃんが運ばれた病院に向かっているところなの。だから帰りは少し遅くなると思う。途中必ず電話を入れるから、うちでおとなしく待っていて。約束よ」 「わかった。怪我をしたって、おばあちゃん、死んじゃうの?」 「……それはわからない。おかあさんは、きっと大丈夫だと信じているけど」 「でも、四階から落っこちたら、やっぱり死んじゃうかもね」  いきなり心臓に冷水を浴びせかけられたような衝撃があった。手先足先にまで、瞬時に電気が駆け抜ける。 「四階から落ちたって、真穂……」  小さな携帯電話から、例のキョキョキョキョというホトトギスの鳴き声のような高笑いが聞こえてきた。いや、ホトトギスではない。鵺《ぬえ》だ。そして電話は高笑いを響かせたままぷつりと切れた。真穂が切ったのか、それとも電波が途切れたのかはわからない。しかし香苗は、改めてかけ直すだけの気力を失っていた。  まさか……口の中で小さく呟く。いくら何でも真穂が時枝を突き落とすなどという恐ろしいことが、現実に起きる訳がない。第一真穂はまだ身長百三十センチかそこらの非力な子供だ。仮に突き落とそうとしたところで大人の本気の抵抗にあえば、それをなしうる訳もない。そうよ、まさかよ……呟きながらも心の底ではかなりの割合で、その可能性を認めている自分がいる。真穂は並みの子供ではない。あの気味の悪い鳥のような笑い声が、それを明かしている。 「お客さん、大丈夫ですか? 具合が悪いんなら、どこか途中でいっぺん停めましょうか?」  バックミラーで見てもひどい顔色をしていたのにちがいない。目だけをミラーに映して運転手が訊いた。 「いえ」香苗はぐったりとしたからだを立て直しながら言った。「大丈夫です。だから病院に急いでください」      22  今のアパートに引っ越した時、衣類を整理していてたまたま黒い喪服を目にし、ふと不吉な思いに見舞われた。とはいえ、それを早速時枝の通夜、葬式で身に纏うことになろうとは、むろん考えてもみなかった。  病院に駆けつけた時、時枝は既にこと切れていた。息が止まり、血がからだを巡ることをやめてしまった肉体はどこかよそよそしく、時枝とは別物に化してしまっているような感じがした。表情の失せた顔、作りものみたいに白い色をした肌。ただその表面は、長年の疲れを物語るかのように茶色っぽくくすんでひび割れている。それが香苗には哀れに思えた。  救急車で運ばれる際に時枝は苦しい息の下で、「自分で落ちた」と救急隊員に対して告げたという。手摺りの外にひっかかっている折れた木の枝を落とそうとして、体勢を崩して落ちてしまったのだと。それゆえ時枝の転落は、事故として処理が進められていた。  自分が死ねばいちのも消える。いつか時枝はそう言っていた。確かに時枝が死んだことで、真穂は途端にもとの真穂に戻った。いや、真穂は生まれながらにいちのに生き写しなのだから、どれがもとの真穂かというとむずかしい。だが、新潟に行ってから真穂が時に香苗に対しても垣間見せることのあった老婆のような表情や、いかにも底意地の悪いいちのを思わせるような目つき、顔つきは、完全になりを潜めた。真穂はほぼ八歳の子供にふさわしい顔を見せ始めている。真穂が電話でキョキョキョキョと笑った時が、時枝が息を引き取った時だったのかもしれない。あれはいちのが最後に叫んだ快哉ではなかったか。  時枝が亡くなった日の晩、香苗から報せを受けた春山は、すぐに「大久保東レジデンス」の部屋へ駆けつけてきた。時枝の遺体を前にまだ茫然として自分が取り戻せていない香苗に代わって、通夜や葬式の段取りなども、全部彼がしてくれた。身内のように立ち働く春山に、自然と感謝の念が湧く。が、ほぼ一段落着いた時になって、彼は香苗に囁くように言った。 「こんな時に言うのも何だけど、俺、たまたま見ちゃったんだよな」 「え?」 「ベランダから、真穂ちゃんがかあちゃんを突き落とすところ。……いや、俺は誰にもそんなこと言うつもりはないけど」  仕事でたまたま「大久保東レジデンス」の近くを通りかかった。時枝がそこに住んでいることを思い出し、マンションの南側を覗き込むようにして見上げる。その時、折しもベランダで揉み合う時枝と真穂の姿があり、ついで時枝が転落するのを目撃した。すぐに香苗に連絡を入れようと思った。しかし自分が見たことをどう話したらいいものかと考えあぐねるうち、時間ばかりが経ってしまった。事務所に連絡を入れた時には、香苗は既に病院へと向かった後だった──。春山の話は、だいたいそんなことだった。  話を聞くうち、香苗の顔は蒼ざめ、表情もまた、自然と険しいものへと変わっていった。黙って春山を見る。それから言った。 「嘘」  自分でもはっとするぐらいに、低く太く、しかもきっぱりとした力のある声だった。 「いや、俺は嘘なんか」 「嘘」  もう一度同じ声と調子で香苗は言い、春山を見据えたままゆっくり大きく首を横に振った。  香苗も一度は真穂が時枝を突き落としたのではないかと思い込みかけた。だが、病院に行き、時枝の顔を眺めるうちに、おのずと真実が見えてきた。あの日、真穂が時枝のマンションに行ったことは事実、真穂の中のいちのが身をあちこちに打ちつけながら暴れたことも事実だろう。恐らくその時の真穂の暴れ方は、時枝の気を顛倒させるぐらいに激しいものだったにちがいない。時枝は叫び、耳を覆った。幾度も詫びの言葉を繰り返し、何とか真穂の中のいちのを宥めようと試みた。それでもいちのはおさまらない。こんなにも痛かった。もっと痛かった──、言いながら、自分自身、いや、真穂に対する暴行はどんどんエスカレートしていく。それに時枝は怖さを覚えたのだと思う。このままでは、これぐらい痛かったのだぞと、窓から飛び降りることさえしかねない。真穂を死なせることはできない。かといって、自分が真穂に殺されてやる訳にもいかない。前に時枝は言っていた、真穂に殺されればあの子にも自分と同じ罪を負わせることになる。やがて時枝は、荒れ狂う真穂を止めるには自分が飛び降りるしかないというところまで、気持ちのうえで追い込まれてしまったのだと思う。喰うか喰われるか、長年その闘いをしてきた時枝が最後に選択したのは、喰う方にまわることではなく、喰われるほうにまわることだった。あれは事故ではない。しかし殺人でもない。いわば自殺。命を失い、肉体の活動が停止してしまった時枝の唇は動かない。けれども、まだ身の周りをゆらゆらと漂っている時枝の意識が、直接香苗の意識に語りかけてくれた。だからこそ香苗はこれっぽっちも動じることなく、春山に対して「嘘」と言えた。そもそも、偶然通りかかった時にちょうど事件の現場を目撃するなど、あまりに話ができすぎている。 「春山君、あなたいったい何が狙いなの?」香苗は言った。 「山上、何言ってるんだよ。俺は何も──」 「春山君、あなた、私にもうひとつ嘘を言ったわね。あなた作田さんと繋がっている。あの人とは組まないと私に言ったのも嘘」  役にも立たない香苗を事務所に雇い入れたのは友情からではない。今は役に立たなくても、今後役に立たせる方法もあるだろうと、一応押さえにかかったというところだ。春山にその判断をさせたのは作田だ。香苗と真穂が新潟の金の山に繋がる人間だということを、作田が春山に吹き込んだのに相違ない。思えばここは、友情などというセンチメンタリズムが通用する街ではなかった。真穂が単にいちのに瓜二つというだけでなしに、現にいちのがのりうつっていると知った時は、作田も肝を潰したことだろう。だからといって諦めた訳ではない。作田は自分が欲しいものに対しては、貪欲を超えて執念深い。作田はただ一歩退いて、今後因縁の祖母と孫の間でどんな展開があるかと、模様眺めをしていただけの話だ。春山と作田がこれから大久保の街でどんな商売に手を出そうとしているかまでは知らない。言えるのは、それが金になるということ。世の善悪の基準など意味を持たない。問題は金になるかならないか。彼らは、同じ穴の狢だ。 「春山君には世話になったわ。まだもらったのは一ヵ月分だけれど、役にも立たない私にお給料まで払ってくれて。今度だって、通夜や葬式の段取りまでしてくれた。それについてはお礼を言うわ。でも、頂いた一ヵ月分のお給料は、いずれお返しに上がります」 「山上、お前何か誤解しているぞ。それに給料を返すって何だよ? そういうことで済む問題だと思っているのかよ」 「誤解なんかしていない。私もようやく目が見えてきたのよ。言っておくけど、そんなことじゃ済まないとか何とか、恫喝なんて意味ないわよ。私はもう、いちいちおたついてはいられないんだから」  急に目が開けたのは、事実を教えてくれるものがあるからだ。香苗には、それが時枝であるように思えた。死ぬ寸前までわかり合えなかった母娘。しかし時枝の肉体的な生命が消滅した途端に、生きていた時よりも時枝の考え、思いというものが、はるかによくわかるようになった気がする。息をして空気を吸うのと同じように、魂が、何の垣根もなしに香苗の中にはいってくる。  香苗を見る春山の眼の底に、鋭くぎらついた光が見えた。今は黙って引き下がっても、この男はきっと諦めないだろう──、その目の光を見ながら香苗は思った。作田もまた、必ず何らかの形で喰らいついてくる。  葬式の日、黒いスーツに身を包んだ人々の中に、香苗は誠治の姿を見てはっとなった。久し振りに見る夫の顔。いや、かつての夫の顔だった。別れてたった半年だが、彼はよく言えば少し大人の男らしくなったように見え、悪く言えばいくぶん老けたように見えた。時枝が死んだことを、彼はどこでどうして知ったのだろう。葬儀の際はろくろく話す間もないままに別れたが、その晩遅くなってからもう一度、誠治はマンションの部屋に香苗を訪ねてきた。 「今日は遠方からわざわざありがとうございました」  誠治を中に招じ入れ、改めて香苗は頭を下げて言った。 「こっちに来てまだ間もないのに、君もいろいろ大変だったね。おかあさんとは、近頃別に暮らしていたんだろう?」 「どうしてそれを?」誠治の言葉に思わず顔を上げて彼を見る。 「知っているさ。君と真穂の生活のありようぐらいは」  夫婦別れして目の前から香苗と真穂の姿が消えても、かつての妻と娘のことを、意識からも消してしまった訳ではない。香苗と真穂とがどこで暮らしているか、香苗がどこに勤めているか、真穂がどこの学校に通っているか……誠治は人に頼んで、折々香苗と真穂の暮らしぶりを、報告してもらっていたという。 「人に頼んで?」 「東京の、知り合いの調査会社の人間だよ」  それで時枝が死んだことも、葬式に間に合うぐらいに早く伝わったのだろう。 「君とは、夫婦の間の問題とはまた別のことでおかしくなって、本意ではない方向にいってしまった。今日まで君に一銭の金も支払わないままにきたのは、君がそんなものはいらないと言ったからじゃない。それをしてしまったら、本当に縁が切れてしまうと思ったからだ」 「誠治さん」  久し振りに、夫の名を口にした。しかしそれは心寄せるような愛しげな呼び方ではなく、そんなことはもう言わないでくれと、彼の言葉を制するような呼び方だった。 「こんなことがあった時に言うのは不謹慎だとわかっている。だけど僕もいろいろと忙しくて、なかなか何度も東京には出てこられない。だから今日言っておくし、香苗にも考えておいてもらいたい。茨城へ、O町の西納の家へ、帰ってきてはもらえないだろうか?」  香苗は一度誠治の顔を見てから、半分目を閉じるようにして首を横に振った。内側の絶望が、いくぶん項垂《うなだ》れたその首筋に力なく滲んでいた。 「無理よ、そんなこと。第一、お義母さまがお許しになるはずがないじゃないの」 「お袋は、病気なんだ」 「え?」 「夏の終わりに脳梗塞で倒れて。命はとりとめたけれども重い後遺症が残って、いまだにろくに口が利けないし、ほとんど寝たきりの生活を送っている」  香苗の胸を疑惑の翳がよぎる。心を映すように瞳も翳る。誠治はちずの面倒を見る人間がほしくて、それで自分に帰ってこいと言っているのではないか。 「誤解しないでくれ」香苗の暗い眼差しの意味をすぐに察して、慌てて誠治は言葉をつけ足した。「お袋の面倒は、元看護婦で介護の資格も持っている人が、ほぼつきっきりの状態で見てくれている。君にお袋の世話をさせるつもりはないよ。でも、君のため、真穂のためと、そこまできれいごとを言うつもりもない。僕のため、西納の家のために帰ってきてほしい。君なら、家のことをよく心得ている。うちの中のことを、他の人間には任せたくない。僕は君にやってほしいんだ」  香苗はしばし沈黙した。それが君のため、真穂のためと言われるよりは、自分のため、西納の家のためと言われるほうが、逆に納得できる気がした。正直で、こういうちょっと不器用なところがもともとの誠治のよさであり、かつて香苗が安心感を覚えたところでもあった。こんな不器用な男だから、母親と妻の間にはいっても、双方に対してうまく立ちまわることができなかった。 「病気で苦しんでいるお袋にはひどい言い方かもしれないが、今後はお袋が君にいやなことを言ったりいやな思いをさせることもないだろう。そんなことはもうしたくたってできやしないんだから」  天罰だ。そんな思いが、ちらりと頭の端を通り過ぎて行く。自らの心を戒めるように香苗は急いで唇を引き結んだ。 「返事は、もちろん早いほうがありがたいが、これから君も何かと忙しいだろう。四十九日やら納骨やら、全部済ませてからで構わない。落ち着いたら連絡してくれ」  そう言うと、誠治は胸のポケットからかなり厚みのある封筒を取り出して、テーブルの上へと置いた。 「何なの?」中身の察しがついていながら香苗は訊いた。 「二百万ばかり用意してきた。通夜や葬儀の支払いだの何だのもあるだろう。突然のことだったから、お母さんの預金や何かのこともよくわからないだろうし、すぐに自由に動かすこともできないだろうと思って」  正直、当面の支払いをどうするかについては頭を悩ませていた。だからその金はありがたいのひと言に尽きる。しかし素直にそれを受け取ってよいものか、即座に判断がつきかねた。 「これっぽっちの金で君を縛ろうというんじゃない。どうしてもいやとなったら、いずれ突っ返してくれても構わない。でも今は、ある程度の金は持っていたほうがいい」 「それじゃこのお金、一応預からせていただくということでいいかしら?」  まだ恰好をつけている自分が滑稽だった。どうしてすんなり頭を下げて礼を言い、受け取ってしまえないのか。「溝《どぶ》育ちのお嬢様」と、心の中で自分を嗤う。  親父は君に対して何ら含むところはない、だからその点は安心してくれ──、玄関口で靴を履きながらそう言い残すと、誠治は夜の中へと姿を消した。今夜はこのまま車を運転して、真っ直ぐO町へ帰るという。 (おかあさん、どうしたらいい?)  早くもお骨となり、白木の四角い箱の中に納まってしまった時枝に香苗は尋ねた。遺影の時枝は薄い笑みを顔に浮かべている。珍しく、笑っている時枝の写真。にもかかわらず、その目は厳しい光を湛えている気がした。香苗、おやめ、とでも言っているかのように。  香苗は小さく息をつき、疲れた顔で時枝の遺骨の前を離れた。      23  車の窓から見る風景が、次第に見覚えのあるものになりつつあった。確実に、車はO町に近づいている。窓こそ開けてはいないものの、O町の匂いもあたりに漂い始めている。松の内が明けたばかりの、まだ正月ののんびりとした雰囲気を残す田舎の平野、茫洋とした風景。右手には、とりとめのない平たい海が見渡す限りに続いている。霞む水平線、青味よりも白味の強い海の色。反射する日の光。なだらかで穏やかな太平洋の顔。  結局、また戻ってきてしまった……太平洋を眺めながら、心の中で香苗は呟く。出てきた時は二度と帰ることはないと思っていたし、出てきてからもまたここへ戻ってくることなど想像したことさえなかったというのに。  帰る決心をしたのは、ひとつには、この先も大久保で作田や春山みたいな人間たちに囲まれて暮らしていくことに嫌気がさしたからだ。弱みを見せれば、いつ喰らいついてくるとも知れぬ彼ら。脅えて暮らすのは真っ平だが、時枝のように正面から受けて立つ強さもない。加えて香苗には、子供を養いながら食べてゆくだけの経済力もなかった。もうひとつには、過去の自分の十年を、無駄にはしたくないという思いがあった。西納の家で、いつか奥向きをあずかる「奥様」になることだけを楽しみに、姑の執拗な厭味に耐えてきた日々。下女さながらに働き続けた毎日。それがようやく報われる機会に恵まれたというのに、自ら放擲してしまう手はないと思った。西納の家のことならば、香苗もよく心得ている。自信を持って立ち働けるし、明日のことに迷うこともない。 「町の人は、やっぱりいろいろ言うでしょうね」香苗は誠治に言った。 「何をしたって言いたい人間は何か言うさ。だけど俺自身は、誰にも一度も君と離婚したとは言っていないよ」 「え?」 「俺は香苗にいつか帰ってきてもらうつもりだったから。むろん君がいなくなったことにはみんな気がついていたし、お袋はお袋で好きなことを言っていたから、周りは別れたんだろうと思ってはいただろうけどね」  離れていてもなお、誠治は香苗のことを自分の妻だと思ってくれていたのかもしれない。その誠治の気持ちにほだされるような思いになると同時に、一抹の後ろめたさを覚える。当然誠治も、城下のことは承知しているはずだ。それについてはひと言も触れない。寂しさ、寄る辺なさに、相手がどんな男かもろくに見極めず、藁を掴むように縋りついてしまった馬鹿な自分──。  残る問題があるとするなら、茨城に戻ることに真穂が何と言うかだった。ところが、香苗がそのことを口にすると、真穂は瞳を輝かせた。「茨城の、O町のおうちに帰れるの?」 「真穂はO町より東京のほうがよかったんじゃないの?」いくぶん呆っ気に取られて香苗は言った。「いつもそう言っていたじゃない?」 「それはこっちにおばあちゃんがいたからだよ。おばあちゃんももう死んじゃったし……。だったら真穂、茨城のほうがいい。だってあっちにはおとうさんがいるもの」 「だけど真穂、向こうにはおばあちゃまもいるのよ」 「大丈夫だよ」真穂は言った。「だっておばあちゃまはご病気で、もう動けないんでしょ? おとうさん、そう言ってたじゃない。真穂のことだってもうぶてやしない。怖くなんかないよ」  以来香苗は、真穂の中にいちのを見ていない。しかし近頃香苗は、真穂はきわめて繊細でひよわそうでいて、その実、したたかなものを持った子供だと気づかされることが多くなった。状況に応じてころころと態度を変えるその移り身の早さも、あどけなさを楯にしているぶん末恐ろしい。いちのが自分に宿っていた時も、それを知りながら何も語らず、知らんぷりを決め込んでいた。この子の頭の中はどうなっているのか、時に香苗はそんな思いで真穂を見てしまう。 「あー、真穂ここ覚えてるゥ」車から窓の外を見ていた真穂が、大きな声を上げた。「前におとうさんと一緒に海水浴に来た浜だ。ね、そうだよね、おとうさん?」  真穂の歓声に、ハンドルを握る誠治の横顔が緩んだ。 「そうだよ、真穂。よく覚えていたな」 「じゃあ、おうちももう近くだ。真穂のお部屋、どうなっているかなぁ」 「そのままだよ。おとうさんが、そのままにしておくようにって、みんなに言っておいたから」 「本当?」 「本当だよ」 「机も本棚もみんな?」 「本棚の中の本も何もかもだよ」 「やったー! だから真穂、おとうさん大好きなの」  着いてみると、夫婦の居室も出ていった時と、寸分変わっていなかった。そのことに、香苗も少し驚き、心揺さぶられる。 「本当に、何も手をつけていなかったのね……。昔のまんま」 「だからそう言ったじゃないか」  治一郎は、地方視察で留守にしていた。治一郎とは、暮れに彼が仕事で東京に出てきた折に、香苗も一度顔を合わせて話をしている。治一郎は、香苗が戻ってくることに異論はないと、その時明言してくれた。あんたが戻ってきてくれるのならばそれが一番だと。  残るはちず──。 「お義母さまに、ご挨拶させて」  いくぶん緊張が身に走るのを覚えながら、意識的にそれを抑えて香苗は言った。 「うん。それじゃ一緒に部屋へ行こう」  ちずには、三村民枝という元看護婦が付き添っていた。三十代後半の、人柄のよさそうな女だった。民枝は香苗に挨拶をすると、あえて自分は席をはずすように、部屋の外へ出ていった。  その部屋の様子だけが変わっていた。以前は和室だったものが、今は洋間に作り替えられている。恐らくはそのほうが、介護する側にもされる側にも、何かと都合がよいのだろう。 「お義母さま……」  ベッドに身を横たえたちずは、ひとまわりどころか三まわりぐらいは小さくなって、枯れかけた老木のように力なく見えた。黒々として艶のあった髪も色が脱けて干し草のようになってしまっているし、顔もからだもしわしわとして乾涸びてしまっている。香苗に目は向けても、ものも言わない。 「見る影もない、って感じだろ?」部屋を出てから、誠治が囁くように香苗に言った。  そうね……と、香苗は曖昧に頷く。確かに、ちずはいっぺんに十も十五も歳をとってしまった感じがした。いつもきれいに化粧をしていた上品ぶった顔も、今は装うことも表情をとり繕うこともできず、すっかり面変わりして別人のようだ。 「あれでも少しはマシになったんだ。民枝さんが一所懸命リハビリめいたこともやってくれているから。だけど、伝えたいことをきちんと口にでき、自分の身のまわりぐらいのことは自分ででき、という状態にまではもう戻らないだろうな。親父も内心諦めているよ」  しかし香苗は見た。黒目の色さえ脱けてしまったような薄い茶色をしたちずの瞳の底に、香苗に対する厭悪と憎悪の光が明らかに灯るのを。ちずは香苗をはっきりと認識していた。香苗がこの家に戻ってきたことに、強い不快の念と憤りを覚えていた。ちずの眸の強い光に、香苗は小さな稲妻に打たれたような思いがした。  ちずは、はたの人間が思っているほど弱っていない。ちずの中には命の火が、埋《うず》み火《び》どころかまだ赤々と炎を揺らして燃えている。  悪い嫁だと思う。しかしそのことは、やはり香苗の気持ちを重たくした。心の底では、ちずがもっと廃人に近い状態にあることを望んでいた。香苗が誰だかの判断もつかなければ、つねっても叩いても何も感じないぐらいに。だが、残念ながらちずは、まだ人間だった。  真穂の部屋にも行ってみた。東京には持っていくことのできなかったぬいぐるみやおもちゃ、道具、本、それに衣類……車の中で誠治が言っていたとおり、ここもまた、何もかもがそのままの状態に置かれていた。 「わあ、ベッドも前のまんまだ」真穂が言った。「おかあさん、まるで時間が昔に逆戻りしたみたいだね」  大人みたいな真穂の言いように、香苗はかすかに苦笑を滲ませた。 「だけどおばあちゃま、ずいぶん変わっちゃってたね」真穂はベッドに腰を下ろし、両方の脚をぶらぶらさせながら言った。「何か汚らしいって感じ。あれじゃ猿の干物だね」  真穂、と香苗はやんわり窘めた。心の中で思ったことは、香苗も変わりはなかったかもしれない。だが、少なくとも八歳の子供の口から、それを聞きたいとは思わなかった。      24  翌日から、西納の家での日常がまわり始めた。まわり始めてみると、奇しくも真穂が言ったとおり、時間が前に進むのではなく、逆に過去へと巻き戻っているような心地がした。西納の家の中の仕事は、どれもこれもが香苗の身に馴染んだものばかり。そのひとつひとつをこなしていると、徐々に気持ちが落ち着いてくる。一日過ぎるごとに香苗は、あたかもジグソーパズルのピースがワンピースワンピース絵の中にはまっていくように、自分がこの家の風景に溶け込んでいっているような気がした。ちずが倒れて以来、なおざりになってしまったままの仕事もある。それらを片づけていると余計なことなど考える間もなく、一日一日が暮れていく。こうして家に帰ってきてみれば、忙しいことは忙しい。それでも東京の、無駄に気が急いて仕方がないような忙しさとは違った。ここでの時間はもっとゆっくりと流れている。時に日の当たる縁側に腰を下ろして、ぼんやりと広い庭の風景を眺める。十年間、香苗が毎日見続けてきた風景だ。そうすると、安らぎに似たものがおのずと内側から湧いてきて、香苗はささやかな幸せを覚えずにはいられない。やはりここが私の居場所。  当初、突然帰ってきた香苗の姿を目にして、土地の人間も驚いていた。あからさまに好奇の眼差しを向ける人もいれば、反対に自分のほうがバツが悪そうに、見て見ないふりとばかりに目を逸らしてしまう人もいた。それも二度、三度と顔を合わせるうち、互いにどうということもなくなっていく。人の噂も七十五日、あと半年もすれば「いて当たり前」、そんなふうになっていくことだろう。  香苗は、実家の母親の具合が大変に悪くて、看病に東京に帰って留守にしていた。その母親が先日亡くなったので、またO町へと戻ってきた……。表向きはそういうことになっていた。急遽拵えた作り話には矛盾があるだろう。けれども治一郎が話すことに、いちいち疑問を差し挟んでみせる人間は町にいない。治一郎は土地の実力者だ、誰も無駄に彼の機嫌を損ねたくはない。  真穂もまた地元の小学校に通い始めた。何もかも、元通りの日常。ちずが病気で寝ついていて、半ば住み込みのように、三村民枝が家の中にいること以外は。そのちずはといえば、近頃何かに力を得たように、回復の兆しを見せつつあった。 「やっぱり若奥さんが戻ってきたから安心したし、気持ちの張りだって違うんだろ」 「そうそう。若奥さんは家のことは何でもよくわかっていて、痒いところにも手が届くから」  西納の家に出入りする人間は、お世辞半分にそんなことを言う。だが、そうでないということは、香苗が一番よく承知している。香苗に西納の家の奥を任せたくないという一念が、ちずのからだを回復に向かわせている。 「近頃では、前よりずっとよくお召し上がりになりますし」民枝は香苗に言った。「少しずつですけれど言葉のほうも、戻りつつある感じなんです。先に希望の光が見えてきたみたいで、私も本当に嬉しくって」  香苗が西納の家に戻ってから、まだ二ヵ月と経っていない。それを考えると、確かにちずの回復には、目を瞠るものがある。誰かが手を貸してやっても起き上がることすら容易でなかったちずが、この頃では民枝に車椅子の背を押されて、庭を散歩したりもするようになった。  何か目には見えないものに射抜かれたようになってはっと振り返ると、そこに車椅子のちずがいて、香苗のことをじっと見ているということが時々ある。相変わらずちずの目には、香苗に対する根深い厭悪と憎悪の色が宿っている。ぞっと皮膚の内側に鳥肌を立てながらも、香苗は民枝の手前、ちずに向かって笑顔を作る。ちずは笑わない。顔の筋肉が思うように動かないのだから、それは仕方のないことかもしれない。けれども目から厭悪と憎悪の色が消えぬばかりか、冷たく燃える光は余計に強まる。  どうして? 香苗は心の中でちずに問いかける。どうして私をそんなに嫌うの? 私があなたに何をした? そんな目をして私を見るのはやめて。  時には両手でちずの肩を掴み、何がそんなに気に喰わないのと、揺さぶりながら問いつめてもみたくなる。香苗は十年ちずにおとなしく仕えてきた。ここまで嫌われる理由はない。だが、仮にちずの口が利けたとしても、その理由など彼女の口から聞きたくなかった。ちずの甲高いくせにねちねちとした独特の口調を思い出すだけで虫酸が走る。誠心誠意世話をしてくれている民枝には申し訳ないが、彼女の一所懸命さは、香苗には逆に迷惑だった。これ以上ちずを回復に導かないでもらいたい。ちずに言葉が戻りつつあるということは、民枝にとっては希望であっても、香苗にとっては絶望でしかない。けれども香苗が望めば望むほど、物事は思う方向とは逆に動いていくようだった。思えばこの西納の家で事が思いどおりに運んだことなど、過去にも一度としてありはしなかった。  久し振りに、夫婦で晩酌する時間が持てた晩だった。近頃は誠治も、漁協の仕事に、会社の仕事に、それに顔つなぎの地元の寄り合いにと、忙しい毎日を過ごしている。ブランデーグラスに琥珀色の酒を注ぎながら、思い出したように誠治が言った。 「そういえば、びっくりしたよ」 「何が?」 「さっきお袋の部屋を覗いた時に民枝さんから聞いたんだけど、お袋、今日、ちょっとまとまった話をしたらしい。当初はもう口を利くことなんか、絶対に無理だと思っていたんだけどな」 「えっ」取り繕う間もなく、額に翳が落ちて眉間が寄る。 「俺にはせいぜい単語が少しわかるぐらいで、何を言ってるやらさっぱりわからない。だけど民枝さんは慣れているせいか、よく聞き取れるんだな」 「まとまった話って、何の話をしたの?」ひとりでに尻込みしそうになる気持ちを前に押し出し、香苗は訊いた。 「昔の話。やっぱり頭の配線がどこか狂っているのかな。だから昔のことのほうが逆に現実味を帯びて感じられるのかもしれない」  昔の話。そのことに、軽い安堵を覚えてブランデーのグラスに手を伸ばす。掌の中で弄《もてあそ》ぶように揺らしていると、次第に甘い香りが鼻先に漂ってくる。 「いちの、って名前の人のことらしいんだけど」  全身がぎくりとなり、口からは心臓が、目からは眼球が飛び出しそうになった。安堵はたちまちのうちに消し飛び、刷毛《はけ》で白い絵の具をひと掃《は》きしたように、顔から血の気が退いていく。聞き違いではないかとわが耳を疑う。 「え。いち……何て?」 「いちの」はっきりと、誠治はその名を口にした。「新潟の、たいそう大きな家の人らしいんだけど」  いちの、新潟、大きな家……もう間違いはないと思った。気つけ薬の代わりにブランデーを口に含む。 「お袋、子供の頃に家の事情で、ひと夏新潟の知り合いの家に預けられたことがあったらしいんだ。いちのというのはそこの若奥さん。お袋、ずいぶんこの人に陰湿な苛められ方をしたようなんだな。そのことを、今になって初めて思い出したみたいに民枝さんに話したってわけ」 「新潟って、新潟のどこ?」 「そこまでは覚えていないらしい。何という家かも忘れてしまっている。ただ、いちのという名前が頭にあるだけで」 「だけどどうしてお義母さまが新潟なんかに……。知り合いって、遠縁だとか何だとか、何かその家と関係でもあるの?」 「よくはわからない。だけど、お袋の叔父貴の道太郎さんは書画骨董を扱う目利きだったっていうから、その関係で出入りしていた家じゃないかな。戦時中のことだから、疎開という意味合いでもあったのか、それともばあちゃんが具合でも悪くしていたのか……」 「あなた、今までその話をお義母さまから聞いたことはなかったの?」  ないよ、と誠治は笑った。「お袋だって忘れていたことなんだから。たぶんお袋にとっちゃ、よっぽどいやな体験だったんだな。だから意識の下に仕舞い込んで、今日まで忘れていたんだろうよ。人間って、無意識のうちにいやなことを忘れようとするところがあるじゃないか」  挨拶ができない、行儀が悪い、心根がよくない、床を汚した、ものを勝手に使う、ものがなくなった、子供のくせに大飯を喰らう……見知らぬ家にたった一人で預けられ、寄る辺ない思いをしている小さな子供を、いちのはひと夏かけていたぶり続けたらしい。ちずは家に帰ってきてからもしばらくは、その後遺症で萎縮したようになって、まともに人と口が利けなかったという。 「やってもいないことでまで折檻するような、強烈な人だったらしいんだよ。その人が左利きでさ。それを聞いて俺、ああなるほど、と思ったよ。ほら、真穂の左利きのこと」 「真穂の……」 「お袋、異様なぐらいにそれを嫌っていただろう? あれ、その頃の体験が原因しているんじゃないか? つまり、左利きはいちのって人の記憶に繋がる。お袋は、左利きがどうこうっていうことよりも、無意識のうちにいちのって人に対する嫌悪をぶつけていたんじゃないだろうか」  聞いているうち、手先に震えが走りだしそうになった。因縁の糸が、ここでも絡まってしまっていた。元凶はいちの。彼女はいったいどれだけ因縁の糸を張り巡らせたら気が済むのか。香苗は生まれてくる以前も生まれた後も、ずっとこの因縁の糸に搦め取られて生きてきたということを改めて思い知った。これから先も、この糸が断たれることはない気がする。誠治はちずが左利きを嫌った理由を見出して、別に真穂が気に入らなかった訳ではないのだと、自分なりに安堵を得た様子でいる。しかし、彼は知らない。真穂が顔かたちもまた、いちのに生き写しだということを。誠治の言うとおり、あまりにつらい体験だったから、ちずの心は記憶に封印をし、いちのという存在を消してしまったのだと香苗も思う。でなければ、もうとっくにいちのの名前が出ていてよいはずだった。誠治はもはや忘れているかもしれないが、誠治と香苗が結婚するということになった時、ちずは時枝が新潟の出身だということにまでいわれのない嫌悪を示して反対したものだった。今にして思えばあれも根は同じだった。ちずは新潟での一時期を、無意識のうちに心の箱の中に封じ込めた。ただ、いちのに通じるものへの強い嫌悪だけが残った。それがここにきて、どうした加減か病気が記憶の封印を解いてしまった。ちずが今よりもっと回復すれば、真穂がいちのに瓜二つだということに当然気づくだろうし、疑問を抱くようになるだろう。調べれば、香苗がいちのの孫であり、真穂がその曾孫に当たることは容易にわかる。それを知ったら、ちずはこれまで以上に香苗を、真穂を、嫌悪し憎むことだろう。ついに時枝が殺してしまったほどの女だ、幼いちずに対するいちのの仕打ちがどんなだったかも、だいたい想像がつく。 「どうした? 変な顔をして?」 「ううん」香苗は首を横に振った。「そうかもしれないと思って。子供の頃にあったいやな体験って、思いがけなく心に深い傷を残したりするものだっていうから」  無理もない。左利きを嫌うのも真穂を嫌うのも香苗を嫌うのも。二人は紛れもないいちのの血筋。ちずの本能的な嗅覚がそれを嗅ぎつけて、天敵の如くに二人を厭悪させた。  ようやく自分本来の居場所を見つけた気がし始めていたというのに、幸せというにふさわしいものさえ感じるようになりつつあったというのに、またも自分の未来に翳がさしたのを覚えざるを得なかった。  頼むからこれ以上よくならないで。ううん死んでくれていたらよかったのに……グラスを掌に包んだまま軽く唇を噛み、そんなことを考える。我ながら、恐ろしい女だと香苗は思った。 「さ、寝るか。ああ、やれやれ。明日からまた忙しくなるぞ」  何も知らない誠治が伸びをして、間の抜けたあくびをひとつした。今のところは平和な夜だ。今のところは……香苗は心の中でひとりごちた。      25  いつの間にやら、夏が近づきつつあった。町が活気づきだすこの時期が、香苗は決して嫌いではなかった。漁獲の水揚げの量がふえて市場は賑わうし、田畑の緑もみずみずしく、夏野菜の収穫も盛んになる。そろそろ観光客も多くなってくるから、旅館やお土産屋といった町の観光業者も、忙しげに動き始めるようになる。加えて今年は県議改選の年に当たっていた。治一郎も、また候補者の一人として選挙に立つ。一時は中央政界に打って出るという野望を抱いたこともあったようだが、主に地盤と資金の問題からその夢は諦めた。県議再選、それもトップ当選、県議会議長というのが、今の治一郎の狙いだ。夏の選挙を睨んでの準備が、各陣営で既に始まっている。治一郎はもちろん、誠治もその後押しに動きだし、本業などそっちのけというありさまだ。香苗もここでの選挙は何度か経験している。まったく、田舎の選挙というのは町を挙げてのお祭りだ。よそのことは知らないが、ここO町は豊かな土地柄ということもあってか、地元の人間はお祭り騒ぎが大好きで、その種のことになると血が騒ぐ。自分が立っている訳でもないのに鉢巻きをして、炊き出しをし、頭を下げ、泣いたり笑ったり万歳をしたり……東京で育った香苗には、理解に苦しむところすらある。先々のことを考えたら、香苗さんももう少し土地の人間らしくなったほうがよかろうなと、いく日か前に香苗は治一郎から言われた。先々のことというのは、誠治が選挙に立つようになったら、ということだろう。そうなったら、香苗がいつまでも東京から来た澄ました奥様というのでは、地元のかみさん連中の受けが悪い。恥ずかしげもなくたすきをしたり鉢巻きをしたりして歩きまわり、いざという時には茨城弁で泣きを入れて、土下座するぐらいでなければ選挙は勝てない。そう言いたい訳だ。その時がくれば、きっと香苗もやると思う。誠治が政治に出る日まで、この家の若奥様でいられたならば。それはひとえにちずの回復如何にかかっていた。  だんだん陽気がよくなってきたせいか、ちずは香苗以外の人間からすれば、きわめて思わしい回復具合を見せていた。定期的に往診にやってくるかかりつけの桑原医師も、「奇跡的とも言いたくなるような目ざましい回復」と言っている。むろんまだ自由に歩きまわることはできない。言葉で意思の伝達ぐらいはできるようにはなったものの、相変わらず民枝以外の人間には、脈絡のある話として伝わらない。それが香苗にとっては幸いだった。体調のほうはすこぶるよく、当初はほぼ泊まり込む形で看護に当たっていた民枝も、この頃では就寝前に最後の排泄を済ませて大人用の紙おむつを当てがうと、自分の家へ帰っていく。完全に危機は脱し、また心配な状況も抜け出したということだろう。反比例して、香苗の抱える心配の度合は増していく。言いたいことが言えるようになったら、ちずは必ず香苗と真穂を追い出しにかかるだろう。追い出してしまわないまでも、前以上の苛烈な仕打ちに出るだろう。恨み百年だ。考えただけでも気が滅入る。ちずのやり口は、昔からねちっこくて敵《かな》わない。そうなったら、今度誠治はどう出るだろう。以前のように、母親には頭の上がらぬぼんぼんに戻ってしまうのか、それとも自分が楯になり、香苗と真穂を守ってくれるのか。本当のところは、その時になってみなければわからなかった。結局、物事なるようにしかならない。ただひとつ、何があっても時枝と同じ轍は踏むまい、そのことだけは肝に強く銘じていた。香苗はちずを絶対に殺さない。  選挙が近づくと、家の中の様子も変わる。連夜料亭か何かのように賑わって人でごった返している時もあれば、誰も彼もが外まわりに出払ってしまって、廃墟のように閑散としていることもある。今日がその極端な例で、いっとき支持者や選挙対策に当たる人で溢れ返っていたと思ったら、その波が引いてしまった途端に今度は誰もいなくなった。まさに嵐の後という感じ、治一郎も誠治もみんなと一緒に出てしまい、今夜は二人とも日立市のホテルに泊まることになるという。だだっ広い日本間に残されたのは、汚れた食器、食べ残し、吸殻を抱えた灰皿、煙草の匂いと酒の匂い……その片づけに当たる香苗だけ。  ふと時計に目をやる。時刻ははや十一時を回っている。あれこれと考えごとをしながら片づけをするうちに、滑り落ちるように夜の時は流れてしまったらしい。近頃、民枝には勝手口の鍵を預けてある。この時刻だと、彼女も家に帰ったはずだ。香苗が忙しげに立ち働いていたから、声をかけずに出たのだと思う。真穂はどうしただろうか。風呂にはいるように言うのをすっかり忘れていた。それどころか、いつもならば床についていてしかるべき時刻になってしまっている。  片づけの手を止めて、香苗は二階の真穂の部屋へ上がっていった。ドアを細く開けてみる。明かりが消えていて中は暗い。もう寝ちゃったの……口の中で小さく囁きながら、中へはいる。  真穂の姿はなかった。ベッドは整えたままの状態でぺたんとしていて、真穂が寝ていた様子もない。 「真穂」  名前を呼びながら、下へと降りる。風呂場を覗いたが、そこにも姿はない。思わず眉を寄せ、顔を曇らせる。  まさかと心で呟きながら、ちずの部屋へ足を向ける。部屋を覗いて見ると、戸の隙間から射し込む薄明かりの中、もつれるような黒い影が見えた。ぐぐっ、と咽喉をつまらせるような声が聞こえる。 「お義母さま」  目を凝らしてよく見ると、ベッドの上に身を起こしたちずが、真穂の首を絞め上げているのがわかった。まだスプーンを持つ手も覚束ないちずが、真穂が必死にもがいても逃げ出せないぐらいに、腕を絡めて真穂の首を絞め上げている。 「真穂!」香苗は思わず声を上げた。「お義母さま、何をなさるんですか」  真穂は苦しげに顔を歪めている。香苗は首に巻きついたちずの腕を、指で何とか引き剥がそうと試みた。けれども、いったいちずのどこからこんな力が出るのだろうかと呆れるぐらいに、それはしっかり真穂に喰い込んでいる。 「お義母さま、放してください!」  言いながら、腹に肘鉄を喰わせた。その拍子に、真穂に絡みついていた腕が緩む。真穂は腕を振り払うようにして飛び退《の》くと、床の上に身を投げ出すように座り込んだ。はあはあと、苦しそうな真穂の息が聞こえる。ちずもまた、腹に肘鉄を喰らって息がつまったようになったのか、半分咳込むみたいな息をしている。 「真穂、大丈夫?! どうしてこんなことになったの? 何だっておばあちゃまの部屋になんか──」  香苗が言ううちにも、呼吸を整え、息を吹き返したようになったちずが、ベッドから跳ね上がるようにして真穂に飛びかかってきた。ぎゃっ、と香苗の口から悲鳴が上がる。まだ立ち歩きもできない病人とはとうてい思えない。ちずはまるでむささびだった。真穂憎し、いや、いちの憎しの感情だけがちずの中で突き抜けて、動かぬからだを信じられない力で引っ張っている。 「お義母さま、やめてください!」  真穂とちずの間にはいるようにして、ちずの動きを止めようとした。しかしその手は香苗のからだを通り越し、真穂の襟首を掴んでいる。痛い、痛い、と真穂が叫ぶ。 「お義母さま!」  馬鹿力としか言いようがないちずの力に対抗しかねて、香苗はちずの腹を蹴ってから、両手で彼女を突き飛ばした。それほどものすごい力を入れたつもりはなかった。しかしちずはベッドのほうへ飛んでゆき、ゴンと音を立てて壁にぶち当たると、そのままずるりとベッドの上へずり落ちていった。 「お義母さま」  ゴンといった時の音が、あまり気持ちよいものではなかった。見るとちずは半分白目を剥いていた。後頭部を、したたか打ちつけたのかもしれない。急に恐ろしくなって、香苗はいかにも大事そうにちずのからだを抱えると、静かにベッドの上に横たわらせた。 「お義母さま……」  ちずは気を失っているのか、何も発しない、動かない。単に気を失っているにしては、息の気配らしきものが伝わってこないのがいやな感じだった。死んでしまったのでは、と考えるだけで、足の底から震えがこみ上げてくる。改めて口許に顔を近づけたり、手を取り脈や鼓動を確かめてみるだけの勇気は香苗になかった。震える手で、香苗はいつも民枝がしているのと同じように、ちずのからだの上に肌掛けをかけた。 「死に損ないの糞女が……」  その声に、はっとして振り返る。声は真穂の口から漏れたものだった。ただし真穂の声ではない。もっと嗄《しわが》れて粘っこい、歳をとった女の声。  背筋に悪寒が走った。久し振りのいちのとの再会。時枝が死んだ時、いちのもまた消えたのではなかったのか。しかしいちのは消えてはいなかった。眠りについてもいなかった。ただ真穂の中でなりを潜め、息を殺していただけのこと。真穂が何故この部屋にはいったのか、香苗は瞬時に理解した。二人の間にあったであろうやりとりも。 「真穂、お部屋に戻りましょう」香苗は波立った声で言い、真穂の手を取った。「これは夢よ、悪い夢。だから誰にも話しては駄目。上へ行って、もう寝ましょう」 「おばあちゃま、どうなった?」今度は真穂の声だった。 「──お寝みになったわ」 「死んだんじゃないの?」 「夢だって言ったでしょ。さあ早く」  真穂と一緒に二階に行き、香苗もそのまま床にはいった。むろん眠ろうにも眠れないが、起きて一人夜を過ごす気にはとてもなれない。ちずは生きているのか死んでいるのか……ふとんの中で身を丸めていても、がたがたと勝手にからだが震えてくる。生きているとすれば、いつか今夜のことを喋るだろう。死んでいるとすれば、それは香苗が殺したということ。どちらにしても未来が暗いことに変わりはない。が、後者のほうがより暗く恐ろしい。ベッドに寝かせる時に暗がりの中で見た、ちずの白目、白い顔。壁に当たった時の、ゴンという鈍くていやな感じのする音が、香苗の中に甦る。  どうしてこの家に帰ってきてしまったのかと、今さらながらのように唇を噛む。時枝のお骨に向かって相談した時、時枝がおやめと言った気がしたのに、その忠告に耳を塞いで出てきてしまった。一人東京で頑張っていくだけの強さがなかった。いや、頑張る前に逃げ出してしまった。  ふとんの中で身を震わせ、時にはっと起き上がってはまた横たわる。そんなことをいく度となく繰り返しながら、香苗はとにかく早く朝がきてくれることだけを願った。もう一度自分があの部屋にはいって、一番先にちずの様子を確かめることになるのはご免だった。朝、民枝か家政婦のトヨノが来て、早くちずの異変に気づいて騒いでほしかった。  O町の西納の家に帰ってきた時、ひょっとしたらそのうちに作田か春山が、難癖をつけにここまで追ってくるのではないかと危ぶむ気持ちがあった。彼らがここにやってきた夢を見たこともある。けれども、追ってきたのは人間ではなかった。いちのという化け物、蜘蛛の巣の網目のような悪い因縁。ある意味では、人間よりも性質《たち》が悪く、始末が悪い。いちのに対する憎しみが、香苗の中で頭をもたげる。  依然きわめて闇は深い。朝はまだ当分やってきそうにない。この夜は、これまでの生涯で一番長い夜になりそうだった。      26  香苗は、東京に戻る荷物をまとめていた。またしても夢破れた、そんな思いはあったが、絶望感はなかった。刑務所にはいることを思えば、こっちのほうがどれだけかよい。  ちずは、死んだ。  頭を打ってしばし気を失った後、気分が悪くなって胃の中のものを吐きかけたのだ。が、まだ意識が朦朧としていたものだから完全に吐き出すことができず、気管につまらせ窒息した。香苗があの時放置しなかったら、ちずは命をとりとめていたにちがいない。  朝早くにちずの部屋を覗いた民枝が、既に体温を失ってしまったちずを見つけた。叫びに等しい声を張り上げて報せに来たのを受けて、香苗はまず日立にいる治一郎と誠治に連絡を入れた。治一郎は、自分が桑原医師に電話を入れるから、何もしないで彼を待て、と指示した。間もなく家へと駆けつけた桑原はちずを診断し、治一郎と誠治の帰りを待ったうえで病死との判断を示した。順調に回復しているように見えても、大病の予後というのは変調が起きやすい。夜中に気分が悪くなって戻したのだが、それを口の外に吐き出すだけの力がなかったのだろうと桑原は言った。ただ民枝だけが青い顔をして、そんな馬鹿な、と一人首を横に振り続けた。だが、それも長いことは続かなかった。大方治一郎が、民枝に因果を含めたのだと思う。家の中で何が起きたのか、ちずがどうして死んだのか、その本当のところは治一郎にもわかってはいない。が、事実がどうあれ、死んだものは死んだのだ。それをもとに戻すことができない以上、先のことを考えていくよりほかない。万が一そこに事件性があれば、どうしたって騒ぎは大きくなるし、家にも自分にも傷をつける結果を招く。治一郎は正確に真実を見ることよりも、状況の悪化を回避することのほうを選んだ。いかにも現実家の治一郎らしい判断といえた。  誠治はといえば、彼を迎えた香苗の様子から、何事かがあったということは察しがついていたと思う。桑原医師も、本心からちずの死因に不審を抱いていない訳ではなく、それを治一郎や誠治に対してだけは告げているはずだ。しかし誠治も治一郎に倣って、何も触れようとはしなかった。その代わりに、香苗に対する視線は日に日に冷えていった。何もなかった、あれは病死だ──、いかに頭でそう思おうとしても、肌がそれを納得できずにいる。香苗がちずを殺したという思いは、日ごと誠治の中で確信に近いものに育っていったのだと思う。彼の瞳の色が告げていた、人を殺した女、それも実の母親を殺した女を妻としては愛せない。一人の女としても愛せない。  人が死んでも選挙は来る。それからしばらくは、葬式、四十九日、納骨という法事に加え、選挙という戦争があったから、目のまわるような慌ただしさの中で時は過ぎていった。香苗には、その目まぐるしさが救いだった。  治一郎は、無事再選を果たした。ただし、トップ当選ではなく三位当選。これは彼にとっては敗北を意味していた。そこにもちずの急死の影響が出ていた。人の口に戸は立てられない。悪い噂はすぐ広がる。病死という名の不審死。人は憶測を交え、声を潜めてあれやこれやと噂した。その噂の中核をなしていたのが、香苗がちずを殺したという憶測ではなかったか。あの晩家にいたのがちずと香苗と真穂の三人だったということは、かなりの人間が承知している。人を殺すなど、子供にそんな真似ができるはずがない。とすれば、容疑者も犯人も残る一人よりほかにいない。人はかつてちずと香苗の間に確執があったことを承知している。東京から戻っても、ちずの面倒は人任せ、下の世話はもちろん食事の世話さえしていなかったということも。  敗北を喫した治一郎の機嫌は、当然のように芳しくなかった。当選の祝い酒も、彼の口には苦いものに感じられていたにちがいない。彼がいつもよりも血ののぼった赤鬼のような顔をしていたのは、むろん酒のせいばかりではない。彼は、半ば吐き捨てるように香苗に言った。よもやこんな形で足をすくわれようとはな。人間、一度落ち目にはまったらどうにもならない。物事すべて悪い方へと転がり出す。疫病神というものはいるものだ──。  もはや夫にも愛されていない。義父にも忌み嫌われ始めている。この家に、香苗の居場所はもうなかった。西納の家のためにも、香苗は出てゆくべきだった。香苗がいては、周囲の人はちずが死んだ時に抱いた不審を、なかなか忘れることがない。しかし香苗の姿が消え、誠治が新しい妻を娶り、子供が生まれ、育っていけば……それに押し流されるように悪い記憶も薄れていく。この地に、香苗の匂いを残してはいけない。禍根を残してもいけない。かつての時枝と同じ決断。  禍根──、まさに真穂は災いの子だった。この子のために、香苗はいつも落ち着き場所を失ってしまう。真穂という幼い娘を抱えているのか、いちのというどうしようもなく癖のある老婆を背負い込んでいるのか、自分でもよくわからなくなってくる。そのぶん少しずつ真穂に対する愛情が、香苗の中で目減りしていく。いちのが紡いだ罠のような因縁の糸は、これでもう断たれたのだろうか──、真穂を見ながら香苗は思う。このうえもしもまだ因縁の糸が自分に絡んでくるようならば、もはや堪えられない気がした。次は香苗自身が、ぶつりと音を立てて切れてしまうかもしれない。姑殺し、祖母殺しでは済まない。今度は子殺しという大罪を、自分が絶対に犯さぬという自信はなかった。ひょっとすると、それが最もよくない最後の因縁の糸なのかもしれない。 「おかあさん、今度はどこへ行くの?」  香苗と同じように自分の荷物をまとめながら、真穂が尋ねた。 「東京。前と同じ大久保よ」 「大久保? それじゃおばあちゃんが住んでいたあのマンションに住むの?」  香苗は首を横に振った。「ううん。あそこはもう引き払ってしまったもの。前のマンションでもアパートでもない、別のところ」  時枝が人に任せていた喫茶店は、時枝が死んだ時点で、一年以内に閉めて明け渡してもらうよう頼んであった。赤井というマネージャーからは、この八月で店仕舞いにするからと、香苗のところに連絡がはいっていた。香苗は、その喫茶店を自分でやってみるつもりでいた。教えてくれるはずだった時枝がいないというのは心細いが、最初は誰もが素人だ、やってやれないことはあるまい。今度こそ自分の足で立ち、自分の手で食べていくだけの金を掴むのだ。 「大久保か……ま、大久保も悪くないね」真穂が言った。 「真穂はこっちへ帰ってくる時は、こっちのほうがいいみたいなこと言っていたじゃないの?」 「だっておばあちゃまも死んじゃったしさ、こっちにいたって、もう面白いことは何もないよ」  ひとりでに心が冷え込んで、身から力が失せていく。人が苦しんでいる姿を見るのが面白い、人を苦しめるのが面白い、この子はそういう子──。  香苗は大きくひとつ息をつき、再び荷物を整理する手を動かし始めた。もう余計なことは、何も考えたくなかった。かつての時枝のように、この先自分が食べていくための金を得ることだけを、ひたすら考えようと思った。      27 「いらっしゃいませ」  言ってしまってから、香苗は改めてはいってきた客を見て、顔の色を消した。薄い翳のような無表情が、香苗の顔を覆っていく。 「何だよ。人の顔見るなり『いらっしゃいませ』って言って損したっていうような顔しちゃって。俺だって一応客だぜ。いつもちゃんと金は払って帰ってるんだから」 「金も払わないようだったら、水ぶっかけているわよ」 「敵《かな》わねえなぁ」春山は、カウンターの席に腰を下ろしながら言った。「まったく山上、近頃本当にかあちゃんに似てきたな。目の配り、ものの言い方、それに仕種……面白いもんだな」  それは香苗も自分自身、何かの拍子に感じることがある。たとえば、横目でちらりと真穂に冷たい視線を走らせたり、唇の上にのぼりかけた言葉を飲み込んで、代わりにいささか大げさな諦めの吐息をついてみたり……そんな自分に気がついて、これはかつて自分が時枝に見ていた姿だと思う。香苗の中に時枝がいる。  大久保へ戻ってから、三年あまりが経とうとしている。真穂もこの春には中学生になる。この三年は無我夢中だった。そのぶん時は倍の速さで過ぎていき、香苗に倍の年月ぶん、歳をとらせた。その証拠に、まだ四十には少し間があるというのに、生え際に白いものがまじりはじめている。髪を伸ばして束ねているから、それは銀色の筋のように光って余計目立った。確実に皺も増えたし肌の色もくすんだ。しかし、そんなことはどうでもよかった。おのが身に構っている余裕はなかったし、いちいち染めたり手入れをしたりする手間も煩わしい。反対にここらあたりで商売をやっていくなら、若く見られるよりは多少年上に見られたほうがやりやすい。なめられたらお終いだ。だから香苗は、別に歳をとることがいやではなかった。 「で、今日は何の用事?」 「用事がなくっちゃ、コーヒー飲みにきちゃいけないみたいな言い方だな」 「あなたが用事もなしに、うちにコーヒー飲みにきたことなんかありゃしないじゃない」 「かあちゃんそのものの言い方だな。──用事ってほどのことじゃない。来週のことの確認だよ」 「確認されなくったって覚えているわよ」 「ならいいけど」  来週末は店を一日休んで、四人で新潟へ行く段取りになっていた。四人……香苗、真穂、春山、それに作田。  茨城から大久保へ戻ると、案の定すぐに作田と春山の二人が、揃って香苗に喰いついてきた。そのうちに茨城にまで会いに行くつもりでいたんだと、異口同音に彼らは言った。手間が省けてよかったよ、と。  以後は二人して香苗を脅したりすかしたりの日々。時効といえども過去に時枝が人を殺したことは間違いないし、口を拭ったきり罪の償いもしなかったこともまた事実。しかも実の孫である真穂は、その時枝を殺した。当日真穂と時枝が争うのを目撃した人物は本当にいる。仮に事実が明るみに出ても、真穂はまだ小学生、罪に問われるということはない。だからといって、祖母を殺したという事実まで消えはしない。一家に人殺しが二人。人生の大事な節目節目でそんなことをまわりの者に言ってまわる人間がいた日には、真穂はとうてい幸せな人生など歩めない……。彼らが口にしたのはだいたいそんなこと。  黙ってそれを聞きながら、内心香苗は笑いだしたいような気持ちでいた。目撃者など、この街でなら金でいくらでも仕立てられる。人生の大事な節目節目で余計なことを言ってまわる人間がいるとすれば、それは作田たち本人だ。時枝は姑のいちのを殺し、真穂は祖母の時枝を殺した。おまけに茨城では香苗が姑のちずを殺したということまでつけ加えてやったら、彼らはいったいどんな顔をするだろう。一家三人、みな人殺し。  糠に釘といった様子の香苗に業を煮やし、次に作田と春山は、香苗をやんわり恫喝してきた。自分たちが必要としているのは香苗ではなく真穂だ。だから香苗はいなくても構わない。自分たちはこの街に巣喰う外国人の世話を始めた。金も貸している、仕事の世話もしている。十万二十万の金で人殺しを請け負う人間は、彼らの中にはいくらだっている──。  聞いていて、二人が新たに大久保で始めた商売がどんなものだか見当がついた。外国人相手の闇金融、金を貸しもすれば、預かって利子をつけてやることもする。裏で故国への送金もしてやるし、金のない人間、返せない人間には仕事の斡旋もする。いわば外国人を金で紐つきにする商売。ただし中国人は避けたろう。彼らには彼ら独自の強固な組織がある。下手に関われば自分の命が危ない。二人はそういうことには敏感だ。 「で、結局何が狙いなの? いったい何がお望みなの?」  ひと通りの脅し文句をすべて聞いてから、香苗は言った。  二人の望みは、まず真穂を首藤の家に入れること。そうすれば、一生喰うに困らないだけの広大な農地と、売れば恐らく億の単位の金になるだろう蔵の中の品が手にはいる。二人はN町に新しい会社を作り、そこを拠点に新潟港でロシアと貿易をする計画まで立てていた。表向きはどういう品をやりとりするのかは知らない。だが、彼らが本当にやりとりしたいのは、白い肌をしている若い娘だったり、薬だったり……この街に持ってくれば、大きな金に化けるものだろう。  今度こそ、声を立てて香苗は笑った。この街で喰っている男たちの言うことときたら、まるでお化け話だ。それをまた、いい歳をした男が目を輝かせて真剣に話す。だが、お化け話のうちのひとつかふたつかが本当に実現しかねないのが、ここ新宿だった。ともあれ、真穂を首藤の家に入れるということが話の前提になっている以上、少なくとも真穂が成人するまでは、香苗が消されてしまうことはない。そのことだけははっきりした。真穂と縁もゆかりもない二人では、真穂の後見人になることはできない。したがって仮に真穂が首藤の家にはいっても、彼らはその財産に関して何の権利も持ち得ない。彼らには、自分たちの手の内にある状態での香苗が、いや、真穂の母親が必要なのだ。  真穂に聞いてよ、突き放すように香苗は言った。私に決められることなんて何もない。こっちは、いつもあの子の思う方向に流されているだけ。だから真穂に聞いて。  すると真穂は、首藤の家に帰りたい、と言った。 「だってあそこは私の家だもの」  以来物事はその方向に向けて進められているし、動いてもいる。修もとうとうこの頃では、真穂を首藤の家に迎えるほうへと傾きだした。自分の血を引く孫に継がせるのが筋と考えるようになったのか、いちのを身に抱え込んでしまった真穂を不憫に思ったのか、それとも殺されたいちのの無念を知りながら、口を噤んでしまったことに対する贖罪なのか……。もしかすると、どうせ自分は早晩この世を去る身と、いっさい諦めただけのことなのかもしれない。  諦めているのは、香苗とて同じだった。首藤の家を自分の家と言い、そこへ帰りたいという真穂。香苗の母の時枝を死に追い込んだ真穂。香苗にちずを殺させた真穂。自分の産んだ娘でありながら、真穂を心からは愛せなくなってきている。何も知らなかった頃は、顔は自分には似ていなくても、その愛らしさ、美しさを単純に喜ぶこともできた。けれども今は、自分の匂いを露ほども感じさせないその容貌にも、胸が白々と冷めていく。それで冷えた心を映した一瞥を、つい真穂にくれてしまう。当然、真穂もそのことに気がついている。だから母子の距離は、日に日に遠ざかっていく一方だ。自分のことを愛していない母親を、子供のほうも愛せない。そのことは、誰よりも香苗が一番よく承知している。けれども、わが子を愛することができない母親もまたつらい。  死んでから、おかあさんを自分の中に感じたり、おかあさんの気持ちがわかったりしても遅いのよ──、時として香苗は、知らず知らずに自嘲を含んだ哀しい笑みを、口許に漂わせている自分に気がつく。その瞬間が、香苗は最も孤独だった。  真穂はこの春には首藤の家へ行き、八木沢地区の中学校にはいることになるだろう。話はそこまで進んでいる。来週末はその具体的な相談で、みなで新潟へ行く。形としては、真穂が首藤の家の子供になるのではなく、香苗が真穂を連れて、首藤の籍に戻るという恰好。とはいえ、香苗は大久保を離れるつもりはなかった。そのことは、修にも真穂にも、また作田や春山にもはっきりと言ってある。田舎はもうこりごりだった。ことに陰惨な事件があった土地や、ややこしい因縁を抱えた田舎の家は。だから、香苗は真穂と別れて暮らすことにした。求められれば必要に応じて、八木沢地区に通うだけ。今はむしろ、真穂と離れられることが気持ちのうえでは楽だった。 「しかし、これで一生喰う米に不自由しなくなるってことだけは間違いないな。あのあたりの米、美味いんだよなぁ」きゅっと呷るようにコーヒーを飲んでから、春山が言った。  香苗は煙草に火を点け、溜息代わりに白い煙を吐き出してから言う。「あんたはお気楽で羨ましいわ」  店を始めて間もなくしてから、香苗は煙草を喫うようになった。愚痴りたいことも溜息をつきたいことも山ほどあるのに、そうしてばかりもいられない。だから言いたいことを言う代わりに煙草を喫い、溜息をつく代わりに煙を吐く。時枝も煙草をよく喫う女だった。時枝の煙草も、愚痴代わり、溜息代わりの煙草だったのかもしれない。 「ご馳走さん」春山は立ち上がり、ポケットの財布をがさつかせて札を出しながら言った。「それじゃ来週よろしくな。朝、車で迎えに行くからよ」  わかったわと、香苗は疲れた顔を小さく縦に動かした。  店を出ていく春山の後ろ姿を眺めながら、香苗は口の中で、「同じ穴の狢」と呟く。春山も。作田も。そして香苗も。人から見ればなおのことそうだろう。闇に足を半分突っ込みながら、人の弱みを飯の種に喰っている人でなし。暗い夜の海の底を泳ぎまわる、グロテスクな顔をした深海魚。香苗の顔にまた哀しい苦笑が滲んだ。私の笑いはこの街に帰ってからというもの、いつだって引かれ者の小唄だと思い、香苗はまた苦笑した。 [#改ページ]  ──新宿・大久保 午前二時──  その女の客が店にはいってきたのは、深夜の二時をまわった時分のことだった。香苗の店は、喫茶店だが朝方まで店を開けている。歌舞伎町から流れてくる塵のような客を拾う土地柄、この近辺の飲食店で、十二時前に店を閉めてしまうところなど稀だった。  女は水商売のようだった。けれども、顔に施した濃い化粧を透かして、女のまた別の顔が香苗の目には見えていた。 「コロンビアを」  カウンター席に座り、女は言った。その目が、カウンターの内側の、香苗の姿を追っている。 「ママ、私のこと、覚えています?」 「覚えているわよ」香苗は水のはいったグラスを差し出しながら、素っ気ない調子で頷いた。「二、三ヵ月ぐらい前、風に煽られたみたいに、夜中にふらっとうちの店にはいってきた人でしょ? ボストンバッグひとつ持って。その時座ったのもその席だったわね」  香苗が自分を覚えていたことに、女ははにかんだような笑みをうっすら顔に浮かべてみせた。あれから、そう時は流れていない。けれども化粧の威力ばかりでなしに、女はすぐにそれとはわからないほど、あの時とは面変《おもが》わりしてしまっていた。早くも彼女は、このあたりの水に馴染み始めている。 「あの晩ママさんに会えたことで、私、肚が坐ったみたいになって……。今、新宿で働きながら、大久保で暮らしているんです」  そう、という香苗の愛想のない声が、豆をグラインドするけたたましい音に半分掻き消される。 「私ね、歌舞伎町の『ハモニカ』という店で働いているんです」  ハモニカ、その名前に記憶の糸を引っ張られ、香苗はかすかに眉根を寄せた。 「『ハモニカ』のママにこの店の話をしたら、『25時』のママさんには、昔ずいぶん世話になったって。うちのママ、波恵っていうんですけど」  波恵という名前を耳にして、今度はしっかりと記憶の糸が繋がった。昔時枝がスナックをやっていた時、店で一時期使っていたことのある女。相性がよかったのか、中でも時枝が一番かわいがっていた女。 「それなら」香苗は言った。「私じゃない。私の母のことだわ」 「そうなんですか。──そうですよね。うちのママを世話するにしては、ママさんはちょっと若過ぎますよね」  波恵は、因縁かしらねぇ、と彼女に言ったのだという。文字通り五万もの店がひしめく新宿に来て、最初に「25時」に飛び込むとはねぇ……。  それがまた縁になって、「ハモニカ」で使ってもらえるようになったのだと女は話す。 「でも、落ち着いたら別の店を探すつもりです」 「どうして?」 「小さな店なんです。本当はあの店、私なんか雇う必要も余裕もないんですよ。私が困っていたから、ママさんとの因縁に免じて、仕方なしに働かせてくれただけで」  因縁。女に淹れたての熱いコーヒーを出しながら、香苗は頭の中でその言葉を反芻する。この街で三十年あまり暮らした時枝。彼女はここで、血の因縁とはまた別の因縁を紡いでいたということか。あの晩この女にも話したように、大久保の街自体が、ある種の因縁を持った土地でもある。まだ私は因縁の網目の中にいる、そう思うと香苗は、手枷足枷をはめられているような鬱陶しさを覚えた。もうどんな因縁もたくさんだ。けれども香苗もあの晩この女に声をかけたことで、知らず知らずに自ら新たな因縁の糸を紡いでしまっていたのかもしれない。 「ちょっと落ち着いたので、私、ママさんにお礼を言おうと思って、それで今晩ここに寄らせていただいたんです」 「律儀なのね」褒めてもいない口調で香苗は言った。 「私、しばらくここで頑張ろうと思います。お店にも時々寄らせていただこうかと思って。──いいでしょうか?」 「もちろんよ」疲れた顔で、香苗は笑った。「うちは客商売なのよ。きてくれるという人を拒んでいたら、店は成り立っていかないじゃないの」  よかった、と女はまたはにかんだ笑顔を見せた。その顔を見ながら、この女はまた顔が変わるだろうと香苗は思った。あと二、三ヵ月もしたら、今度はこんな素朴な笑みも消えてしまい、きっと作った笑みを顔に浮かべるようになっているだろう。その果てに、心をまったく映さぬ顔を持つようになる。この街には、心の中では金のことばかり、そのためには平気で人も騙すし踏みつけにするくせに、表面それとは裏腹に、日溜まりみたいな顔をした作田の如き人間もいる。だから香苗は言うのだ。人に心は許せない。ここは昏い海の底。棲息しているのはグロテスクな深海魚。香苗自身も含めてだ。 「あの、ひとつ訊いてもいいですか?」女が言った。「お店の名前、『25時』って、どういう理由でつけたんですか? それは、喜怒哀楽を超越した無の時間ということですか?」 「はずれてはいないけれどちょっと違う」そう言って、香苗は煙草に火を点けた。 「25時」という店の名前自体は、以前時枝がつけたものだ。「二十五時」というのは、小説のタイトル。確かルーマニアのゲオルギウという名の作家が書いた小説ではなかったか。いつまで経っても二十五時、永遠に夜が明けることはない。  香苗は、ちずが死んだ晩、がたがたと震えながら、生涯で最も長い夜を過ごした。一分一分がそれぞれ一時間の長さをもっているかのようで、このまま永遠に朝が来ないのではないかと思った。あの時香苗の中にあったのは、恐れ、不安、絶望……。そして今あるのは、それを通り越した虚ろな諦め。香苗にとっての「二十五時」は、虚無と諦念の時刻だった。決して明るくはない。かといって闇ほどの漆黒もまたない。だが、これよりも明るい朝がくるとは思えない。いつまでもこの時、二十五時。 「二十五時は、人それぞれ違うんじゃないのかな。私にとっての二十五時は、いわば諦めの境地よ。出口のない暗いトンネルの中で、もう出口を探すのなんかやめよう、死ぬまでトンネルの中でいいじゃないか、っていうような」 「開き直り、ですか?」 「開き直り……」  女の言葉を、口の中で呟き、繰り返してみる。当たっているかもしれない、と思った。それから思った。時枝もずっと、二十五時にいたのだと。 「失礼な言い方かもしれませんけど、ママさんにふさわしい感じのする名前ですね」 「どうして?」香苗は、心持ち首を傾げて言った。 「──顔がないから」  女は、あれから何度かこの店のことを思い出し、香苗の顔を思い浮かべようとしたらしい。けれども、香苗がどんな顔をしていたか、それをはっきり心に描くことはできなかった。輪郭、顔かたちはわかっているのだが、脳裏に父や母の顔の像を結ぶようにはうまくいかない。どう試みたところで、それは目鼻のはっきりとしない、顔のぼやけた人形でしかない。そのうちに、女は香苗には顔がなかったことに気がついた。顔というより、人間としての、表情というものがなかった。  香苗は、頷くように視線を落とした。作田のように、心や性根とは裏腹の、餌を誘《おび》き寄せんがためのよい顔を作るのもいや。歯を食いしばって、いかにも頑張っていますと言わんばかりの顔もいや。かといって、心を顔にさらけ出すのも堪らない。だから香苗は表情のない面を顔につけた。無表情という表情。それも、諦めという香苗の心を映した仮面なのかもしれない。 「ママ、お名前、何とおっしゃるんですか?」 「時枝」  女の問いに、ほとんど反射的に香苗は答えていた。「山上時枝」 「時枝──、やっぱりお店の名前と通じるところがあるんですね」  そんなことは、考えてもみないことだった。  またきますと、女が店を出ていった。入れ違いにドアが開き、「25時」はまた新たな客を一人迎え入れた。いらっしゃいませ、香苗は言う。見たことのない顔、女の客。病人のように痩せていて、顔色がひどく悪い。目の下の隈、思いつめたような昏い眼差し。しかし香苗はそんなことには気づきもしないように、「何になさいますか?」と事務的に尋ねた。 「あ、コーヒー……。アメリカンを」  香苗の声で、はじめて我に返ったように彼女は言った。言葉に、いくぶん訛りが感じられた。けれども、もう香苗は何も言わない。話さない。自分からは、どんな糸も紡がない。  今夜もまた、何かを身に抱え込んだ人間が、何かに誘き寄せられるように、この街へと流れてくる。逆に、風に舞い飛ばされるように出ていく人間もいる。ここはそんな街。そういうことの繰り返し。  自分では自分の力で人生を、懸命に生きているつもりかもしれない。けれども香苗には、誰も彼もが人形に見えた。からだについたたくさんの糸。誰しもが、身を縛る糸にがんじがらめにされている。操られているとは気づかぬままに、操られている気の毒な操り人形。香苗はただ見ているだけ。まるで余生を送る老婆が、ひがな寄せては返す海の波をぼんやり眺めているように。  次、どんなものすごいものを背負った客がどんな酷い顔をしてそのドアからはいってきたとしても、自分はもう驚くことがないような気がした。たとえ時枝が、あるいはちずが、黄泉《よみ》の国から甦ってそのドアを開けてはいってきたとしても。香苗は怯まない、動じない。  ここはいつもが二十五時。恐れ戦《おのの》きも通り越した、諦念の時刻。闇の昏さを突き抜けた、色のない闇。 主要参考文献 「憑霊信仰論──妖怪研究への試み」 小松和彦 講談社学術文庫 「江戸の闇・魔界めぐり──怨霊スターと怪異伝説」 岡崎柾男 東京美術 「日本妖怪巡礼団」 荒俣宏 集英社文庫  単行本 二〇〇〇年六月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十五年十一月十日刊